第三話 青銅の手
第一章 アナトリアの春
1999年4月、トルコ西部の春は、嘉一が想像していたよりもずっと緑が濃かった。
イズミルでの商談を終えてホテルを出たのは午前10時を少し回った頃で、ロンドンへ戻る飛行機は夕方だった。Chikami Tradingが取引を検討している地元の機械メーカーとの話は、前日までの予想に反してあっさりまとまり、現地で嘉一の面倒を見ていた社員は、残った時間をホテルのラウンジで過ごすか、それとも空港へ早めに向かうものだと思っていたらしい。
ところが、ロビーに置かれていた道路地図を眺めていた嘉一が指を止めた場所は、空港とは反対方向だった。
「サルディスって、ここからどのくらいです?」
社員は地図を覗き込み、少し意外そうな顔をした。
「車なら1時間半くらいでしょうか。サリフリの手前です。ただ、遺跡以外は何もありませんよ」
「遺跡があるなら十分です」
嘉一がそう言うと、社員は笑いながら首を振った。
イズミルを離れて内陸へ向かうと、エーゲ海沿岸の湿った空気は少しずつ乾き、街路樹と集合住宅が途切れた先に、広いゲディズ川流域の平野が開けてきた。道沿いにはオリーブの木と葡萄畑が続き、ときおり赤茶色の瓦屋根を載せた村が現れ、その背後にはまだ雪をわずかに残した山々が霞んでいた。古代のギリシャ人がトモロス山と呼んだ山塊である。その北麓に、かつてリュディア王国の首都サルディスがあった。
車の窓を少し開けると、乾いた土と青草、それにどこか甘い花の匂いが混じって入り込んできた。ロンドンの春とはまったく違っていて、雨上がりの石と煤の匂いではなく、大地そのものが温まり始める匂いだった。嘉一は地図を膝に広げたまま、しばらく外を見ていた。
リュディアについてはOxford時代にもかなり読んだ。アナトリア西部に興った王国で、紀元前7世紀から6世紀にかけて勢力を拡大し、ギュゲス、アルデュス、サデュアッテス、アリュアッテスと続いた王朝の最後に現れたのが、有名なクロイソスだった。リュディアが世界史の教科書に登場する理由の一つは貨幣であり、パクトロス川から採れる砂金と銀の自然合金エレクトロンを利用した初期の鋳貨が、この地域で大規模に使われ始めたとされている。金持ちを意味する英語の古い表現、rich as Croesus のCroesusも、そのクロイソスである。
だが嘉一が面白いと思っていたのは、黄金そのものより、その地理だった。東へ行けばアナトリア高原、西へ行けばエーゲ海、その先にはイオニアのギリシャ都市が並び、北にはフリュギア、さらに東方にはメディアやペルシアがある。サルディスは文明の端ではなく、いくつもの文化がぶつかる場所にあった。
こういう場所には、物が集まる。物が集まれば、人も集まる。人が集まれば、技術も宗教も言葉も変わる。歴史とは王の名前を並べることではなく、その下で人間と物がどう動いたかを見ることだと、嘉一は考えていた。
サリフリの町に入ったところで昼になり、運転手が勧める店に寄った。観光客向けではない食堂で、炭火の前では白いシャツを着た男が肉を焼き、壁にはアタテュルクの写真とサッカークラブの旗が並んでいた。
出てきたのはサリフリ風のキョフテだった。羊と牛を混ぜた挽肉を細長くまとめて焼いたもので、横には焼いたトマトと青唐辛子、玉ねぎ、それに薄いパンが添えられている。派手な料理ではなかったが、肉には炭火の香りが深く入り、塩と脂だけで十分にうまかった。嘉一は2皿目を頼んだ。
「よく食べますね」
社員が呆れたように言った。
「朝食を食べてないんです」
「ロンドンでもそうなんですか」
「だいたい」
食後に小さなガラスの器で濃いチャイが出てきた。砂糖を一つ落とし、スプーンで混ぜながら、嘉一は店の外を通る古いルノーとトラクターを眺めていた。トルコはヨーロッパでありながら、同時に明らかにアナトリアだった。モスクのミナレットの向こうにはローマ以前の丘があり、現代の道路はペルシア王道と完全に無関係ではない場所を走っている。こういう土地は、何日いても飽きない。それが嘉一の顔に出ていたらしく、社員が笑った。
「商談のときより楽しそうですね」
嘉一はチャイを飲みながら答えた。
「商談は仕事ですから」
「これは?」
「遊びです」
サルディスの遺跡に着いたのは午後1時を過ぎていた。トモロス山の斜面から平野へ向かって広がった古代都市の一角には、後世のローマ時代に建てられた巨大な浴場・体育施設の遺構が残り、その向こうにはアルテミス神殿の柱が青い空へ突き出していた。リュディア王国そのものの姿は、ローマ建築ほど派手には地上に残っていない。
むしろ嘉一が長く眺めていたのは、遠くの平野に点在する奇妙な丘だった。平野に点在しているのは自然の丘ではなく、リュディア人が築いた人工の墳丘だった。ビン・テペ、「千の丘」と呼ばれる巨大な墓地群で、その内部には王族や有力者たちが葬られている。
嘉一は腕時計を見た。本来なら、ここで空港へ戻るべき時間だった。
ところが遺跡の案内人が、近くに小さな地方博物館があると教えた。嘉一は社員を見る。社員はため息をついた。
「飛行機、変えますか」
嘉一は少し考えた。
「まだ間に合います」
その答えを聞いた社員は、どうせ間に合わなくなるのだろうという顔をした。実際、その通りになった。
博物館は、石造りの大きな建物ではなかった。白い壁の低い建物で、展示室も3つしかなく、観光客もほとんどいなかった。ガラスケースには陶器、青銅製の鏃、装身具、馬具、硬貨などが並び、説明文の多くはトルコ語だったが、主要な展示には英語も添えられていた。
嘉一は、一つ一つかなり丁寧に見ていった。そして、3番目の展示室で足を止めた。
長さ30cmほどの青銅器だった。先端は緩やかに湾曲し、中央部には動物を思わせる浅い装飾があり、反対側には太くなった握りのような部分がある。古い緑青が表面を覆い、一見すれば短剣か、何らかの儀式用武器に見えなくもない。
説明札には英語で、
LYDIAN CEREMONIAL CAVALRY WEAPON6th century BC
とあった。嘉一は少し腰をかがめると、ガラス越しに青銅器を正面から眺め、さらに左右へ位置を変えながら、刃とされている部分の厚みや柄とのつながりを確かめていった。見る角度によって印象が微妙に変わるのが気になり、嘉一は一度離れかけた足を止め、もう一度右側から見直した。
5分ほどそうしていたところで、背後から英語で声をかけられた。
「それが気になりますか」
振り返ると、50歳くらいの男が立っていた。黒髪にはかなり白いものが混じり、細い金属フレームの眼鏡をかけている。ネクタイは締めていなかったが、ツイードのジャケットは擦り切れるほど着込まれていた。

「少し」
「武器がお好きですか」
嘉一はもう一度ガラスケースを見た。
「いや」
男が眉を上げた。
嘉一は言った。
「これ、本当に武器ですか?」
それが、すべての始まりだった。
第二章 武器ではない
男の名はケマル・アルスランといった。この地方の考古学博物館で20年以上働き、専門はリュディア時代の金属器と葬制だった。つまり嘉一が思いつきで展示品に疑問を投げる相手としては、あまり都合のいい人物ではなかった。
「あなたは考古学者ですか」
展示室の隅に置かれた机で、ケマルは訊いた。
「昔、少し勉強しました」
「大学で?」
「Oxfordで」
その答えを聞いて、ケマルの表情がわずかに変わった。
「専攻は?」
嘉一は答えた。
「考古学です。ただし今は商社で働いてます」
ケマルは数秒黙ってから、コーヒーを一口飲んだ。
「ずいぶん遠いところへ行きましたね」
「自分でもそう思います」
トルコ・コーヒーは、ロンドンで飲むコーヒーとはまるで違う。小さなカップの底には粉が沈み、砂糖を入れて煮出してあるため、濃いというより粘るような味がした。ケマルはカップを置いた。
「それで、Oxfordの元考古学徒は、なぜ私たちの展示が間違っていると思うんです?」
「間違っているとは言ってません」
「さっき言ったでしょう。武器ではないと」
「疑問を持っただけです」
「同じことです」
嘉一は少し笑った。
「実物を見せてもらえますか」
ケマルはすぐには答えなかった。観光客が地方博物館に来て、2000年以上前の青銅器を持たせてくれと言い出したのだから当然だった。
ところが20分後、嘉一は白い手袋を渡され、収蔵室の長い机の前に座っていた。
「落としたら、あなたの会社に請求します」
「たぶん払えます」
「そういう意味で言ったんじゃありません」
ケマルは木箱から青銅器を取り出した。ガラス越しに見るより、ずっと重かった。嘉一はそれを両手で受け取り、最初に重量を確かめ、次に右手だけで握ってみる。手首を返して、刃とされている部分を前へ向ける。何度か角度を変えたあと、嘉一は首を振った。

「やっぱり変です」
「何がです」
「武器として使いにくい」
椅子を引き寄せたケマルを見ながら、嘉一は青銅器の中央を指した。
「まず重心がここにある。短剣なら先端か、せめて握りの少し前に来るはずです。ところがこれは握ったときに横へ振られる。それに、この部分を刃だと考えるなら、研いだ痕跡がほとんどない」
「儀礼用なら?」
「それならあり得る」
嘉一は認めた。
「ただ、儀礼用の物にしては、ここだけ妙に減っている」
ケマルが身を乗り出した。青銅器の根元に、小さく磨かれた部分があった。
「腐食では?」
「たぶん違う。接触摩耗に見える」
嘉一は向きを変えた。反対側には、直径1cmほどの穴が開いている。
「この穴については?」
「装飾用の紐を通したのではないかと言われています」
「何のために?」
ケマルは肩をすくめた。
「分からないから学者は“儀礼”という言葉を使うんですよ」
嘉一が笑った。
「便利ですね」
「非常に便利です」
ここで初めてケマルも笑った。
そこから先は、嘉一にとって休日になった。
ケマルは収蔵庫から発掘記録や当時の写真を次々と持ち出し、最後には古いドイツ語で書かれた調査報告書まで机の上に広げた。
青銅器が発見されたのは1950年代で、サルディスから少し離れた小規模な墳墓だった。副葬品には陶器のほか、鉄製の小環、青銅製の留め具、いくつかの馬具らしき部品が含まれていた。
嘉一は写真を一枚ずつ見ていった。
「馬の歯がありますね」
「あります」
「馬そのものを埋葬した?」
「全部ではありません。おそらく一部だけです」
リュディア人にとって馬は重要だった。アナトリア西部の王国はギリシャ都市との交易で富を築いたが、その軍事文化には内陸アナトリアや東方世界の影響も強く、騎兵は単なる戦闘手段ではなく、地位を示す存在でもあった。しかし嘉一が興味を持ったのは、王や戦士ではなかった。
「これ、馬具一式の近くから出てるんですよね」
「そうです」
「武器としてではなく、馬具と一緒に保管されていた可能性は?」
ケマルはしばらく黙った。
「それなら、何だと思います?」
嘉一は青銅器をもう一度持った。穴に指を通し、湾曲部分を机の端へ当てるようにして角度を変えた。
「工具じゃないかな」
ケマルの眉が動いた。
「工具?」
「革を締めるための」
嘉一は椅子から立ち上がった。
「馬具には革紐が多いでしょう。手だけで締めるより、こういう物を使って捩れば力がかかる」
「テンショナー?」
「そんな感じです」
ケマルは青銅器を見る。嘉一も見る。
2000年以上前の道具を前にして、2人はしばらく黙っていた。考古学には、王墓が開かれ、失われた都市が姿を現し、碑文から忘れられた王の名が読み解かれるような、誰の目にも分かる劇的な瞬間がある。けれど実際の研究を支えているのは、そうした華やかな発見ばかりではない。陶片の厚さや骨に残った切断痕、壺の内側に付着した煤、何度も使われた道具の表面に生じたわずかな摩耗といった、ごく小さな痕跡を積み重ねながら、そこにいた人間が何をし、どう暮らしていたのかを読み取っていく。
王や都市の名は記録に残るが、物を握った手の癖までは記録されない。それでも、使われた道具には、その人間の動きがわずかに残る。嘉一が考古学に惹かれるのは、そうした名もない人間の痕跡に触れられる瞬間だった。
「もしこれが馬具用の工具なら」
ケマルがゆっくり言った。
「この墓の解釈も変わります」
「戦士の墓じゃなくなる?」
「少なくとも、その可能性は下がります」
嘉一は発掘写真へ目を戻した。
発掘記録を見直してみると、墓には剣も槍もまとまった量の鏃もなく、戦士の墓と呼ぶには武器があまりにも少ない。その一方で、馬具や各種の金具、そして用途不明とされてきた青銅器が残されていた。
「馬を扱っていた人間だったのかもしれないですね」
「騎兵ではなく?」
「騎兵かもしれない。でも、軍隊には馬に乗る人間だけじゃなく、馬を戦える状態にする人間が必要です」
ケマルは嘉一を見た。
「軍隊にいたことがある?」
「少し」
「商社マンで、Oxfordで考古学をやって、軍隊にもいた」
「そういう人もいます」
ケマルは疑わしそうだったが、それ以上は訊かなかった。代わりに時計を見て、少し驚いた顔をした。午後6時を過ぎていた。ロンドン行きの便は、とっくに出ている。
「飛行機は?」
「明日にします」
ケマルは声を上げて笑った。
その夜、嘉一はサリフリのホテルに泊まった。夕食には、茄子を焼いてヨーグルトを添えた料理と、羊肉の煮込み、それにエフェスのビールを頼んだ。窓の外には低い建物の屋根が並び、その向こうにトモロス山の黒い稜線が見えた。
食後、ホテルの部屋へ戻った嘉一は、机の上にノートを開き、昼間に見た青銅器を記憶の中からもう一度取り出すように、その形をゆっくりと描き始めた。摩耗の位置、穴の大きさ、重心の偏り、発掘時の出土状況を一つずつ書き加えていくと、博物館ではまだ輪郭しか持っていなかった疑問が、紙の上で少しずつ具体的な形へ変わっていった。
時計を見ると、いつの間にか午前1時を回っていた。仕事の資料を前にしたときよりもはるかに集中していたことがおかしくて、嘉一は小さく笑い、ようやくノートを閉じた。
翌朝7時20分、眠りの名残がまだ部屋に残る時間に電話が鳴った。受話器の向こうにいたのはケマルだったが、その声には昨日までの余裕がなく、何かが起きたことだけは最初の一言で分かった。
「博物館に来てください」
嘉一はベッドから起きた。
「何かあったんですか」
電話の向こうで、一拍置いてケマルが答えた。
「昨日の青銅器が盗まれました」
第三章 消えた青銅器
博物館の裏口には警察車両が2台止まり、制服姿の警官が出入りしていた。
入口の扉そのものに大きな破壊痕はなく、窓も割られていない。犯人は裏手の古い勝手口から入り、収蔵庫へ向かい、いくつもある棚の中から例の青銅器だけを持ち去っていた。
ケマルは怒っていた。博物館員として当然だったが、それ以上に、昨日まで自分が20年以上見てきた品を、今ようやく別の角度から理解しかけていたところだった。
「他の物には触っていない」
彼は嘉一に言った。
「金製品も硬貨もあるのに?」
「まったく」
嘉一は収蔵庫を見回した。
「じゃあ最初から、あれが目的だった」
捜査を担当していた地元警察の警部は、40代の無口な男だった。英語は話せたが、民間人を捜査へ入れる気はまったくないらしく、嘉一にもケマルにも何も触らないよう命じた。
それは正しい。嘉一も邪魔をするつもりはなかった。ただし、ケマルから聞いた一つの話が気になった。半年前から、イズミルの古美術商が何度か青銅器について問い合わせてきていたという。
「売るわけがないのに?」
嘉一が訊く。
「もちろん」
「写真は?」
「研究目的だと言われたので送った」
「誰に?」
「エルデム・デミル。イズミルで店をやっている」
警部にも同じ情報は渡してある。嘉一はそれ以上口を挟まなかった。
午前中は博物館で発掘記録を読み直し、昼になるとケマルと外へ出た。博物館の前にある食堂で、レンズ豆のスープとパンを注文したが、ケマルはほとんど食べなかった。
「価値はどのくらいなんです?」
嘉一が訊く。ケマルは首を振った。
「考古学者に聞く質問じゃない」
「盗んだ人間は考古学者じゃないでしょう」
ケマルはスプーンを置いた。
「数万ドルかもしれないし、もっと高いかもしれない。リュディアというだけで買いたがる人間はいる。クロイソス、黄金、王墓、騎兵。そういう言葉を並べれば、金を出す収集家がいる」
「“王国の騎兵が使った儀礼武器”なら売りやすい」
「その通り」
嘉一は少し考えた。
「だから急いだのかもしれない」
「何を?」
「昨日、俺たちが武器じゃないと言い始めたでしょう」
ケマルの表情が変わった。
学術的な再評価がすぐ市場価値を変えるわけではない。しかし、もし誰かが以前からあの青銅器を狙っていたなら、博物館側が再調査を始めれば、写真撮影や分析、保管方法の変更などで扱いが厳しくなる。盗むなら今だ。
その日の午後、警部からケマルへ連絡が入った。イズミルの古美術商デミルは店にいなかった。前日の夜から姿が見えないという。嘉一はホテルへ戻る予定を変えた。
「イズミルへ行きます」
ケマルが言った。
「警察に任せた方がいいですよ」
「私の博物館です」
その言い方で、嘉一は止めるのをやめた。
結局、2人でイズミルへ向かった。サリフリから西へ戻る道は、前日とはまるで違って見えた。オリーブ畑も村も同じだったが、今度は景色を眺める余裕がない。
イズミル。
エーゲ海へ面したこの都市は、古代にはスミルナと呼ばれ、ギリシャ、ローマ、ビザンツ、オスマンと何度も支配者を変えてきた。海沿いには近代的な建物が並ぶ一方、その奥へ入れば細い路地と市場が迷路のように広がっている。
ケメラルティ市場へ入ると、細い通りの両側に香辛料屋や革製品店、金細工や銅器を扱う小さな店が隙間なく並び、その奥には色鮮やかな絨毯が何枚も吊られていた。シミットを積み上げた屋台のそばでは魚が焼かれ、炭の煙と濃いコーヒーの香りが人混みの中で混ざり合っている。屋台ではシミットが積み上げられ、魚を焼く匂いとコーヒーの香りが混じっていた。
デミルの店は市場の外れにあった。シャッターは半分下りていた。
「閉まってますね」
ケマルが扉を叩いたが、返事はない。
そのとき嘉一は、通りの向こうに停まっている古い緑色のルノー12を見た。一瞬、助手席の男と目が合ったが、男はすぐ前を向いた。嘉一は何も言わずにケマルとそのまま歩き、角を曲がった。20mほど進んでから嘉一がショーウインドウのガラスに目を向けると、ルノーがゆっくり動き出すのが映った。
「ケマル」
「何です?」
「振り返らないでください」
ケマルの足が少し止まりかけた。
「何で?」
「ついてきてる」
軍隊を辞めて2年近く経っていたが、こういう感覚は簡単には消えない。誰が周囲を見ているか。誰が自分たちを意識しているか。どの車が一度見た車か。考古学より先に身についた能力ではなかったが、考古学より長く生き残っていた。
2人は市場へ入り、人混みの中を歩いた。嘉一は急がない。追われていると分かった人間が急げば、相手にも気づいたことを教えるだけだ。やがて後ろにいた男が一人、市場へ入ってきた。ケマルが小声で言った。
「どうする?」
「警察に電話してください」
「あなたは?」
「少し確認します」
「何を?」
嘉一は露店の銅製品を眺めながら答えた。
「誰なのか」
男はプロではなかった。尾行を続けることだけに集中しすぎて、嘉一が止まると一緒に止まり、嘉一が店へ入ると店先で待った。
嘉一は絨毯店へ入り、奥の出口から別の路地へ出た。そこから回り込む。男が嘉一を見失い、慌てて周囲を探しているところへ、背後から声をかけた。
「俺を探してます?」
振り向いた男の顔に驚きがあった。それだけで十分だった。走って逃げる男を嘉一は追った。市場の中を、男は人を押しのけながら進み、果物の箱を倒し、狭い階段を下りた。嘉一はそれほど速く走る必要がなかった。出口は前方に一つしかない。
海沿いの通りへ出たところで、男は横から来た荷車を避けようとして足を滑らせた。嘉一が追いつくと男は拳を振ってきた。
嘉一は半歩だけ体をずらし、腕を取って壁へ押しつけた。大げさな格闘にはならず、数秒後、男は地面に座らされていた。少し遅れてケマルと警官2人が走ってきた。

男はデミルの店で働いていた。警察の取り調べは、その夜のうちに結果を出した。青銅器はまだ国外へ出ておらず、イズミル港近くの倉庫にあるという。
翌朝、嘉一とケマルが警察署で待っていると、警部が布に包まれた細長い物を持って戻ってきた。ケマルは立ち上がった。布が開かれると、緑青に覆われた青銅器が現れた。嘉一はそれを見ながら言った。
「よかったですね」
ケマルは返事をせずに、眼鏡を外し、しばらく目を押さえていた。
第四章 道具の記憶
事件そのものは、それほど大きなものではなかった。
古美術商デミルは国外の収集家へ売るつもりで、博物館の元臨時職員を通じて裏口の鍵を複製させていた。以前から青銅器に目をつけており、嘉一とケマルが再調査を始めたと聞いて、保管場所が変えられる前に盗ませた。
警察がそこまで突き止めると、嘉一の役目は終わった。普通なら、その日の便でロンドンへ帰ったはずだったが、嘉一は帰らなかった。ケマルが訊いた。
「まだ何かあるんですか」
「あります」
「事件は終わりました」
「そっちはね」
嘉一が指差したのは、戻ってきた青銅器だった。
「こっちが終わってない」
数日後。
サリフリ郊外にある革職人の工房で、嘉一とケマルは一人の老人を見ていた。壁には手綱、鞍、革ベルトが吊られ、床には切った革と木片が散らばっている。老人は青銅器そのものには触れず、博物館が採寸して作った簡単な複製品を手にしていた。
嘉一の仮説は単純だった。青銅器の穴に革紐を通し、柄を回転させて、湾曲した部分を支点として使う。そうすれば、手で引くだけより強い力で革を締められるはずだ。最初はうまくいかず、革紐が滑った。次は向きを変えて試してみるがやはりうまくいかない。それを見て老人が複製品を取り上げた。何も言わずに革紐を通し、角度を変えて回すと、革が締まった。嘉一とケマルは同時に身を乗り出した。
老人がもう一度ゆっくり最初からやってみせる。支点となる部分が、実物で摩耗している場所とほぼ一致していた。ケマルは何も言わなかった。嘉一も黙っていた。
2000年以上前に失われた動作が、工房の机の上でふたたび形を持った。それは王墓の発見や黄金の出土のような、誰の目にも分かる劇的な瞬間ではなかったが、嘉一にはむしろその地味さがたまらなく面白かった。名も残っていないリュディア人の誰かが、この道具を手に取り、穴へ革を通し、力をかけて回しながら馬具を締めるという作業を、おそらく何百回となく繰り返していたのだろう。
その人間も、彼が扱った馬も、彼らが生きた王国さえすでに失われている。それでも、同じ動作を積み重ねた結果として生じたわずかな摩耗だけは青銅の表面に残り、2000年以上の時間を越えて、使い方そのものをこちらへ伝えていた。嘉一は複製品を手に取り、先ほど老人が動かした角度をもう一度確かめた。人の名は消えても、手の動きは物に残ることがある。
「これですね」
ケマルが頷いた。
「かなり可能性が高い」
「“儀礼武器”よりは?」
ケマルは笑った。
「少なくとも私は、もう武器とは書かない」
その後、2人は改めて発掘資料を見直した。墓からは、軍事的な武器と呼べるものがほとんど出ていない。
その一方で、馬具関連の金属部品が多かった。もちろん、これだけで埋葬された人物の職業を断定することはできない。それでも、発掘された馬具や金具、そして青銅器の用途を重ねて考えると、王族や名の残る英雄ではなく、騎兵隊の馬を管理し、装具を修理し、遠征へ出られる状態に整える仕事をしていた人物だった可能性が浮かんでくる。嘉一には、その方がむしろ面白かった。
歴史書には、クロイソスがどこへ遠征し、どの国と戦い、最後にペルシア王キュロスに敗れたかは書かれている。だが、その遠征を支えた軍馬の革紐を誰が締め、切れた装具を誰が直し、翌朝もう一度馬を戦場へ送り出したのか、その名前はどこにも残っていない。
「軍隊って」
嘉一は発掘写真を見ながら言った。
「戦う人間だけじゃ動かないんですよ」
ケマルが顔を上げた。
「あなたは、やっぱり普通の軍人じゃなかったでしょう」
嘉一は笑った。
「昔の話です」
「何をしてた?」
「歩く仕事です」
「それは軍人の大半がそうです」
「じゃあ、それでいいでしょう」
ケマルは追及しなかった。
夕方、2人はサルディスの遺跡へ行った。春の太陽が低くなり、トモロス山から伸びる影が平野を覆い始めていた。古代のパクトロス川は、クロイソスの時代と同じ流れではないだろうが、山から下る水は今も平野へ向かっている。遠くにビン・テペの墳丘が並んでいた。
リュディア王国は紀元前547年頃、アケメネス朝ペルシアに征服された。しかしサルディスそのものは消えなかった。ペルシア帝国の西方拠点となったサルディスは、その後アレクサンドロスの征服によってヘレニズム世界へ組み込まれ、諸王朝の支配を経てローマ都市となり、さらにビザンツ時代を生き延びたのち、やがてトルコ人の時代へ入っていった。支配する国が滅び、都市の呼び名が変わり、そこで信じられる宗教や話される言葉まで入れ替わっても、人間が馬に乗り、道具を使い、食事をし、物を売り買いしながら暮らしていくこと自体は驚くほど変わらない。
嘉一にとって考古学が面白いのは、まさにそこだった。王や英雄の偉業を遠くから眺めるためではなく、自分とはまったく違う時代に生きた人間の生活を辿っていくうちに、彼らもまた笑い、働き、食べ、道具を壊しては直しながら生きていたのだと気づく。
2000年以上という時間は、王の名前だけを追っていると果てしなく遠い。けれど、一人の人間が馬具を締めた手の動きまで辿り着くと、その距離は急に縮まる。
ケマルが言った。
「明日、帰るんでしょう」
「さすがに」
「仕事がありますか」
「山ほど」
「残念そうですね」
嘉一は笑った。
「かなり」
その夜、2人はサリフリの食堂へ行った。羊肉を低温で柔らかく焼いた料理と、茄子、トマト、ヨーグルト、それに大量のパンが並び、最後にバクラヴァとチャイが出てきた。ケマルが砂糖をチャイへ落としながら言った。
「展示ラベルを変えます」
「もう?」
「仮説としてです。断定はしない」
「考古学者は慎重ですね」
「商社マンほど簡単には決断しません」
嘉一は頷いた。
「それは正しい」
数か月後。
ロンドンのChikami Tradingに、一通の封筒が届いた。中には博物館の展示ケースを撮った写真が入っていた。青銅器の下のラベルは新しくなっていた。
BRONZE EQUESTRIAN IMPLEMENTLYDIAN, 6th century BCFUNCTION UNDER REVIEW
その下にはケマルの短い手紙があった。
Still not a weapon.
嘉一はしばらく写真を眺めてから、引き出しにしまった。机の上には、次の投資案件の資料が積まれている。本来ならすぐ仕事へ戻るべきだった。だが嘉一は書棚からトルコ西部の考古学地図を取り出し、もう一度サルディスを開いた。
ビン・テペの北側には、まだ調査が十分ではない小さな墳丘がいくつもある。嘉一は地図を見ながら、ほんの少し笑った。そしてようやく、仕事に戻った。