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第四話 海峡の火

第1章 世界の届く机

 嘉将は、森川が差し出した名刺をしばらく眺めてから、窓際に立つ嘉一へ顔を向けた。

「お父さんによく似ているだろう」

「僕が最後にお会いしたときは、もう少し貫禄がありました」

「それはお前が子供だったからだ。あのころは、まだ若かった」

 森川亮介は、どちらへ笑顔を向けるべきか迷った。父が近見嘉将と知り合いであることは以前から知っていたが、嘉一まで自分の父を覚えているとは思っていなかった。

 1999年11月のロンドンは、朝の9時になっても空に薄暗さが残っていた。会長室の窓の向こうでは、濡れた石造りの建物の間を黒いタクシーが流れ、歩道を急ぐ人々がコートの襟を立てている。暖房の利いた室内には、古い木材とコーヒーの匂いがあった。

 大学を卒業した森川は、日本の政治家である父の勧めで、Chikami Tradingへ来ることになった。父は、外国を見てこいという話をするときだけ、妙に説明が短かった。どこで何を覚えるのか尋ねても、近見さんのところなら勉強になる、としか言わなかった。

 その近見さん本人は、目の前で秘書から渡された書類に目を通していた。

「数日は、嘉一について回るといい。会社案内を読むより分かる」

「はい。よろしくお願いいたします」

「分からないことは聞きなさい。分かったふりをされるほうが困る」

 嘉将は署名を終えると、ペンの蓋を閉じた。

「それから、お父さんには、こちらから電話をしておく。着いたその日に仕事をさせているわけではないと」

「今日は仕事を見てもらうだけですからね」

 嘉一が言うと、嘉将は息子を見上げた。

「お前も、見せるだけで済ませるな。何のためにやっているかを話してやれ」

 嘉一は軽く頷き、森川を連れて会長室を出た。

 廊下の先へ進むにつれ、電話の声と、ファクスが紙を送る音が近づいてきた。執務室には日本人もいたが、聞こえる会話の多くは英語だった。壁にはロンドン、東京、香港などの時刻を示す時計が並び、机の上には、厚いファイルと折り畳んだ図面が積まれていた。

 嘉一が自分の机へ近づくと、赤毛の女性が書類を持って立ち上がった。

「カズ、シーメンスとの電話は9時半に変わったわ。ベネットが会議室に来てほしいそうよ。それから、BPアモコの件は午後。エネルギーの連中が先に銀行と話すって」

「ガスプロム側の返事は?」

「まだ。昨日送った仕様への質問が来ているから、アランが読んでいる」

「分かった。ありがとう、ヘレン」

 森川は思わず嘉一を見た。

「シーメンスというのは、あのシーメンスですか」

「ほかのシーメンスも知っている?」

「いえ、そういう意味ではなくて」

 嘉一は笑い、机に置いた鞄を開けた。

「会社の名前が大きいからといって、こちらが会社全部と話しているわけではないよ。発電設備の担当もいれば、工場の設備の担当もいる。今日会うのは、産業用の駆動装置に関わる人たちだ」

 机の端には、ウイスキーの瓶が一本置かれていた。嘉一がそれを持ち上げると、ヘレンがすぐに言った。

「それは食品の試飲用よ。持っていかないで」

「自分の机にあるから、僕に来たのかと思った」

「あなたがスコットランドから持ち帰ったから、ここにあるの」

 嘉一は瓶を戻し、森川へ会議室のほうを示した。

「行こう。まずは、金属と機械からだ」

 会議室では、リチャード・ベネットという英国人が大きな図面を広げていた。50代半ばで、眼鏡の奥の目は鋭かったが、嘉一を見ると口元だけを緩めた。

「今日は遅刻しなかったな」

「9時半になったと聞いたけど」

「9時から準備をするために、9時半にしたんだ」

 ベネットは森川と握手し、隣に座る技術担当の佐伯と、財務のクレア・モーガンを紹介した。卓上には歯車の図面、工場の配置図、材料の試験成績書が並んでいた。どれも、それだけでは何の商売なのか分からない書類だった。

「先に説明しておこう」

 ベネットは森川の前へ、一枚の紙を置いた。

 上段にシーメンス、その下に英国の機械メーカー、さらに材料と加工設備の供給者が記されていた。大同特殊鋼、森精機製作所という日本企業の名前があり、それらを結ぶ線の途中に近見トレーディングがあった。

「シーメンスが進めている産業設備の案件で、英国のホイットモアという会社が減速機の一部を受け持つ。うちは、そこの材料と設備、それから増産に必要な資金の一部に関わっている」

「近見が減速機を売るんですか」

「完成品の設計と製造はホイットモアだ。シーメンスも、そこを見て注文している。問題は、受注した量を、必要な時期までに造れるかどうかだ」

 ベネットは工場の配置図を指した。

 ホイットモアは英国中部にある中堅の機械メーカーで、歯車と減速機に長く携わっていた。設計と加工の腕はよかったが、大きな注文が来たからといって、翌月から生産能力を倍にできるわけではない。材料を確保し、機械を増やし、作業者を訓練し、検査を済ませた製品を納めるまでには、先に金が出ていく。

 森川は、紙の上のシーメンスの名へ目を戻した。

「それほど大きな会社の注文なら、銀行も貸してくれるのではないでしょうか」

「注文を受けた会社が、注文どおりに造れるかを見る」

 クレアが答えた。

「顧客が立派でも、納品に失敗すれば入金されない。銀行が貸す相手は、シーメンスではなくホイットモアだから」

 森川が黙ると、ベネットは歯車の断面図を彼のほうへ向けた。

「そこで、材料から見直した」

 歯車は、軸の回転と力を別の軸へ伝える部品だった。小さな歯車が大きな歯車を回せば、回転数を落とす代わりに大きなトルクを得られるが、噛み合う歯の表面には強い接触圧力がかかり、歯の根元には繰り返し曲げる力が加わる。

 表面は摩耗や疲労に耐えなければならず、内部まで脆くなっても困る。そのため、歯車の種類や用途によっては、炭素量を比較的低くした鋼を加工したのち、表面へ炭素を浸透させる浸炭を行い、焼入れによって硬い表層をつくる。表面と芯で、異なる役割を持たせるのである。

 佐伯は、加工前の材料と完成品を比べた図を出した。

「熱処理をすると、寸法も形も多少は変わります。ですから、最初から完成寸法まで加工するわけではありません。必要な仕上げ代を残して、熱処理後に精度を出す」

「だったら、硬い材料を最初から買えばいいのでは?」

 森川が訊くと、佐伯は首を振った。

「加工が難しくなりますし、欲しいのは全体が一様に硬い部品ではありません。表面に必要な硬さと、芯に必要な粘りがある。そのために材料と熱処理を組み合わせます」

 さらに、同じ鋼種の名前が付いていれば同じ結果になるとも限らなかった。成分の範囲、材料の大きさ、納入時の組織、顧客の熱処理設備と工程によって、加工性や熱処理後の状態は変わる。材料の清浄度や、内部にある非金属介在物への要求も、部品の使われ方によって厳しくなった。

 近見は、ホイットモアが長く使っていた材料を一方的に日本製へ替えようとしたのではなかった。増産に必要な数量と納期を確認し、候補となる材料について、製鋼所とホイットモアの技術者に検討してもらった。似た鋼種を対応表で探すだけでは、どちらも責任を持てなかった。

「こちらは大同から来た回答です」

 佐伯が試験成績の束を開いた。

「材料の条件を合わせた試作と、先方の設備での熱処理、それから加工後の検査を進めています。最終承認は、所定の手順を通さないといけません」

 森川は数字の細かい表を見た。鋼材の購入という仕事が、すでに顧客の工場の中へ入り込んでいた。

「大同特殊鋼とホイットモアが、直接話せばいいんですよね」

「技術の話は、直接してもらっている」

 ベネットは答えた。

「そのほうが正確だ。うちは、その話をする理由をつくり、必要な人を集めて、商売として続けられる条件を揃える」

 大同特殊鋼にとって、ホイットモアは世界最大の顧客ではなかった。ホイットモアにとっても、日本の製鋼所を一社開拓するために、人を置き、言葉と時差を越えて交渉し、購入量と在庫を調整するのは負担だった。

 近見には、ほかにも同種の材料を使う顧客がいた。各社の品質要求を混同することなく、製造側の予定と照らし合わせて発注し、必要に応じて在庫を持ち、顧客が使う単位で納める。その取引の積み重ねによって、日本の製鋼所にも相談できる量と実績ができていた。

 日本から出た鋼材は、英国で歯車になり、ドイツ企業がまとめる設備へ組み込まれ、さらに別の国の工場で働くことになる。森川が会社案内で読んだ国際貿易という言葉は、それまで日本から外国へ伸びる一本の線だったが、目の前の図では、国境を何度も越えて形を変える仕事になっていた。

 会議室の電話が鳴り、ベネットが受話器を取った。スピーカーへ切り替えると、ドイツ訛りのある英語が聞こえてきた。シーメンス側が求めたのは、材料の切替予定だけではなかった。増設する機械がいつ据え付けられ、試作品の検査をいつ終え、最初のまとまった数量をいつ出荷できるかを確認していた。ベネットは一つずつ答え、まだ確約できない項目については、その理由と回答予定を伝えた。

 嘉一は、先方の質問が一段落するのを待って口を開いた。

「生産を二つの段階に分ける案を、ホイットモアと詰めています。初期の数量を既存設備で確保し、増設分は検査を終えてから次のロットへ回す。御社側で、納入先の優先順位を確認していただけますか」

 電話の向こうで紙をめくる音がした。森川は黙って聞いていた。嘉一たちは、巨大企業に何かを売り込むための挨拶をしているのではなかった。すでに決まった設備計画の中で、どの工場がいつ動けるかを話していた。嘉一の言葉によって、遠い現場の工程表が書き換わろうとしていた。電話が終わると、ベネットは時計を見た。

「機械のほうは、東京が帰る前に確認したい」

 佐伯が別の図面を広げた。

 増設するのは、歯車そのものを切る機械だけではなかった。その前後で使う旋盤やマシニングセンタ、測定設備なども、生産量に合わせて見直す必要があった。歯切りの能力だけを増やしても、その前の素材加工や、そのあとの仕上げと検査が追いつかなければ、工場の出口から出る完成品は増えない。

 工作機械は、金属を削る機械というだけでは選べなかった。旋盤は主として材料を回転させて外周や端面、穴を加工し、マシニングセンタは回転する工具を交換しながら面や穴を加工する。それぞれが得意とする形状と工程があり、カタログに記された最高回転数だけで、生産性は決まらなかった。

「こちらは森精機の見積もりです。マザックからの提案も比較していますが、今は機械単体の価格では決められません」

 佐伯は、部品一個に必要な時間を並べた表を見せた。切削時間が短くても、材料の取り付けと取り外しに時間がかかれば、機械はその間働かない。工具交換、測定、切りくずの処理も必要だった。ある工程を別の機械へ移すたびに、部品を掴み直す手間が生まれ、基準の取り方によって誤差も加わる。

 反対に、一台へ仕事を集めれば何でもよいわけではなく、その一台が止まると複数の工程が止まることになる。設備の価格、必要な人数、保守のしやすさ、故障したときの影響まで含めて考えなければならなかった。

「精度は大丈夫なんですか」

 森川が訊いた。

「何を、どんな条件で加工するかによります」

 佐伯は図面の寸法を指した。

「機械が正確に動くことと、正確な部品ができることは同じではありません。工具や材料の固定の仕方でも変わりますし、熱でも変わる。機械を朝から回していると、主軸や送り機構が温まり、部品との位置関係が少しずつ動きます」

 送り機構に使われるボールねじは、ねじ軸とナットの間で鋼球を転がして動きを伝え、摩擦を小さくしている。それでも発熱は生じ、ねじ軸が伸びれば位置決めに影響する。数ミクロンを問題にする加工では、室内の温度や切削液の管理も、単なる作業環境の話では済まなかった。

 森川が表を見ている間に、クレアは別の紙をその横へ置いた。機械、工具、治具、据え付け、訓練に必要な費用と、それぞれの支払時期が記されていた。

「今回、近見が受け持つ材料供給と設備関連の契約は、予定どおり進めば合計で600万ポンド前後。ただし、これは利益ではありません」

 森川はその数字を見直した。

「そのうち、先に支払う分がこれだけあります。ホイットモアからの入金とずれるので、資金が最も必要になる時期を見ています。材料の在庫も増やすから、設備代金だけの問題ではない」

「増産すれば、材料も先に買うことになるんですね」

「給料も電気代も先に払う。売上が増えると、かえって現金が足りなくなる場合がある」

 嘉一は、ホイットモア側の支払予定を指で追った。

「銀行との話は、材料の承認と納入計画を添えて進めましょう。注文書だけ出すより、何を造って、どこで検査して、いつ金になるかを説明したほうがいい」

 ベネットが頷き、クレアは書類をまとめた。

 森川には、材料と機械と金融が、ようやく同じ仕事に見え始めていた。材料の問題を解けなければ生産計画は固まらず、生産計画が固まらなければ必要資金も読めない。資金が用意できなければ、機械を注文できない。そのいずれか一つだけを扱う会社にも、それぞれの専門性があった。近見は、それらを同じ顧客の仕事としてつないでいた。

 会議室を出ると、森川は嘉一へ訊いた。

「こんなに大きな企業が関わる仕事を、どうして近見がまとめられるんでしょう」

「ホイットモアから見れば、材料を長く納めてきた相手だからね。ベネットは、工場の人間も知っている。大同や森精機から見れば、日本で何度も一緒に仕事をした担当者がいる」

「シーメンスにとっては?」

「納入する会社の計画を、材料と設備と金のところまで確認して話せる相手になる。もちろん、僕らが言えば承認されるわけではない。向こうが必要とする証拠と約束を揃える」

 廊下の先では、別の社員が電話をしながら、地図の上へ鉛筆を置いていた。地図は英国でも日本でもなく、カスピ海の周辺を示していた。

「日本の大手商社でも、できますよね」

「できるところは多いと思う。だから、商社という機能だけで、うちしかできないとは言えない」

 嘉一は歩く速さを緩めた。

「ただ、この顧客の工場を知っていて、この材料の相談を受けられて、日本のメーカーと英国の銀行へ同じ日に話を持っていける人間が、今ここにいる。取引は、会社の種類だけでは始まらないんだ」

 鉄鋼部門では、アンドルー・コリンズが受話器を置いたところだった。銀髪に赤みのある顔をした英国人で、嘉一を見ると、自分の机の前にあった椅子を足で押し出した。

「シーメンスは?」

「段階納入を検討してくれる」

「よかった。大同には、佐伯から午後に連絡を入れると伝えてある」

 森川を紹介すると、コリンズは彼の姓を聞いて顔を上げた。

「父親は日本の政治家かね」

「はい」

「なるほど。ヨシマサが昨日話していた青年だ」

 森川が驚くと、コリンズは笑った。

「この会社では、仕事と家族の話が同じ昼食に出てくる」

 嘉一が棚から鋼材の見本を取ろうとすると、コリンズはその手を見た。

「持っていくなよ」

「今日は見るだけですよ」

「昔もそう言った」

 森川は笑いながら、机の脇の写真立てに目を留めた。若いコリンズと、今より細身の嘉将が、港で並んでいた。

「独立して間もないころですか」

「私が知り合ったころの写真だ。今ほど机も人もなかったが、電話だけはよく鳴っていた」

 嘉将は東京大学からLSEへ進み、ジャーディン・マセソンで商売を学んだのち、ロンドンで独立した。

 日本の製造業との接点を持ち、英国で取引先を探し、やがて商品が日本から英国へ届く仕事だけではなくなっていった。欧州の設備を別の国へ納め、日本の材料を欧州の工場へ供給し、既存の取引先の進出先で新しい相手に会う。その過程で英国人の社員も加わり、近見はこの街に根を張った。

「なぜロンドンだったんでしょうか」

 森川が訊くと、コリンズは嘉一へ目を向けた。

「それは、本人がいるときに聞いたほうがいい。ただ、ここで商売をする理由なら、今日も見ているだろう」

 ロンドンには、商品を買う会社だけでなく、資金を出す銀行、輸送を手配する人々、保険を引き受ける人々、契約を扱う法律家がいた。鉱山が英国になくても、鉱山を動かす資金や、生産物を売る話がここへ集まることがあった。設備が日本で造られていても、その設備を使う事業の交渉相手とロンドンで会うことができた。近見の社員が一日中この街で会議をしていても、そこで決まったことが動かすのは、遠い国の港や工場だった。

「日本にいたほうが、日本のメーカーには近いですよね」

「だから日本にも人がいる」

 コリンズは答えた。

「私が材料のことで工場へ電話をするより、長谷川が直接行ったほうがいいことはある。反対に、長谷川がこちらの顧客に説明するより、私が行ったほうが早いこともある。その両方を同じ仕事として扱える」

 近見は、英国人だけの会社でも、日本人だけの会社でもなかった。嘉将が両方の社会に仕事と家族のつながりを持ち、その間を行き来しながら会社を育てたことが、人の配置にも商売の選び方にも残っていた。

 高瀬家には外交や政治を通じた縁があり、嘉将にとっては叔父にあたる通産省勤務の嘉秀を通して日本の産業の話を聞く機会があった。嘉将の伯母である綾が嫁いだ波多野汽船との関係は、後の近見海運へつながった。英国では、嘉将の妻であるエリザベスのグレイ家と、そのエリザベスの母親の実家であるハミルトン家があり、商談のために初めて会ったつもりの相手が、親族の古い知人であることもあった。

 森川がその話を聞いていると、嘉一が言った。

「君のお父さんが父へ電話をしたのも、その中の一つだね」

「はい」

「僕も同じようなものだよ。自分の履歴を説明する前に、父や母の話をされることがある」

 コリンズは写真立てへ目を戻した。

「ただ、紹介してもらって受けた最初の注文が、40年分の注文になるわけではない。そのあと何をしたかだ」

 彼は受話器の横に積んだ書類を軽く叩いた。

「今日のホイットモアも、次の注文をうちへ寄こす義務はないからな」

 昼食へ出るため執務室を横切る途中、嘉一はエネルギー部門の男に呼び止められた。男は、午後に銀行へ出す資料について短く確認し、BPアモコ側との打ち合わせ時刻を伝えた。

 別の席では、シーメンスの発電設備に関する見積もりを読んでいる社員がおり、その向こうではガスプロム向けの照会書に質問が書き込まれていた。棚にはブリティッシュ・エアロスペースとダッソーの名が記された航空関連のファイルが並び、機械部門から届いた書類には、ボルボやダイムラー・クライスラーにつながる顧客案件の名前が見えた。

 森川が知っている企業の名が、会社案内の取引先一覧ではなく、誰かが今日中に返事をしなければならない仕事として置かれていた。

「全部、大きな会社ですね」

 外へ出てから森川が言うと、嘉一はコートの襟を直した。

「大きな会社とだけ仕事をしているわけではないよ。今日のホイットモアも、その先に大きな顧客がいる中堅企業だし、スコットランドの蒸留所は、もっと小さい」

「でも、どこかでつながっている」

「つながることもある。そのつながりを探すのも仕事だね」

 雨は上がっていたが、風には川のほうから来たような冷たさがあった。昼休みの人々が店の入口に並び、路肩では荷物を降ろす男が、開けた扉を肩で押さえていた。

 歩きながら、嘉一は午前の商談へ話を戻した。

「あの工場が増産できれば、材料の出荷が増える。機械が入り、工具が減り、予備部品が必要になる。そこで造った減速機が別の工場へ届けば、今度はその工場で製品が増える」

 森川は、会議室で見た一本の歯車の図面を思い出した。

「近見は、その全部をやるんですか」

「全部をやろうとしたら、何も終わらなくなるよ。うちが役に立つところで仕事をする。今日なら、材料を知っている人と、機械を知っている人が同じ会社にいて、顧客の事情も分かっていた。それを一つの取引にした」

 店の入口で嘉一が扉を開けると、暖かい空気と、焼いた肉の匂いが流れてきた。

「午後は鉱山を見よう。紙の上だけど」

「カザフスタンですか」

「そう。そちらは、掘り出したものを誰が買ってくれるかという話から始めたほうが、分かりやすいと思う」

 森川は頷き、嘉一に続いて店へ入った。午前中に見た数字や鋼材の成分表は、まだ十分に理解できていなかったが、それを確かめるために遠い国の誰かへ電話をかける理由は、少し分かった気がしていた。

 食事が終わるころには日本の工場が仕事を終え、ロンドンでは銀行との打ち合わせが始まる。そのあとには、北米の取引先が電話をかけてくるのだろう。

 森川は席へ着く前に、腕時計を見た。

第2章 地中から市場へ

 昼食の皿を下げに来た店員が、コーヒーを勧めた。嘉一は腕時計を見てから2人分を頼み、森川は上着の内ポケットから手帳を出した。

「一つ、聞いてもいいでしょうか」

「そのために一緒にいるんだから、何でも」

「材料を売る仕事は、少し分かりました。でも、鉱山を買うとなると、まったく別の仕事ではないですか。工場へ鋼材を納める会社が、なぜそこまでやるんでしょう」

 嘉一は、店員が置いたカップを手元へ引き寄せた。

「今日の午前中に見た鋼材にも、鉱山から来たものが入っているよ」

「鉄鉱石ですか」

「それもある。僕がカザフスタンで見てきたのは、モリブデンだ」

 森川は、コリンズの机で見た材料の成分表を思い出した。鉄と炭素以外の元素の欄に、その名があった。

「少し入れるだけのものですよね」

「使う鋼種によって量は違うけど、少ないから重要でないとは限らない。必要な元素が一つ足りなければ、その鋼は造れないからね」

 嘉一はコーヒーを一口飲んだ。

「午後に会うピーターは、僕と一緒にあの鉱山へ行った人だ。僕より、ずっと詳しく説明してくれる。現地へ行くまでに、僕がどれほど知らなかったかという話までしてくれるかもしれない」

 事務所へ戻ると、資源部門の執務室には、午前中とは違う種類の資料が積まれていた。工場の配置図に代わって地質断面図が広がり、壁には鉱山と鉄道と港を結ぶ経路図が掛けられている。窓際の棚には、ラベルを貼った鉱石の標本と、黒灰色の粉末を入れた透明な容器が並んでいた。

 ピーター・ウォルシュは、嘉一たちを見ると眼鏡を外した。

「森川君ですね。お父上から預かった大切な青年に、午前中から歯車の話をしたそうで」

「僕がしたわけではありません」

「止めなかったでしょう」

 ピーターは嘉一へ椅子を勧めると、森川に鉱石の標本を渡した。灰色の石の一部に、鈍い金属光沢が見えた。

「モリブデナイト。輝水鉛鉱です。名前に鉛が入っていますが、モリブデンと硫黄の化合物で、鉛の鉱石ではありません」

 森川が石を傾けていると、嘉一が言った。

「僕も現地へ行ったとき、同じことを話しました」

「化学式から潤滑剤の用途まで、列車の中で聞かせてもらいました」

「予習をしてきたんです」

「運転を代わってもらうほうが、私にはありがたかった」

 2人のやり取りから、森川は草原を走る車の中の様子を想像した。ピーターは鉱石を受け取って棚へ戻し、その隣の容器を机に置いた。

「鉱山の価値を考えるなら、石よりこちらのほうが、売り物に近い」

 容器には精鉱と書かれていた。

 鉱床に含まれる金属の量と、そのまま売れる商品の量は違う。掘り出した鉱石の大部分は、目当ての金属を含まない岩石だった。それを破砕機で砕き、ミルでさらに細かくして、目的の鉱物をほかの部分から分離する。

 モリブデナイトの回収には、浮遊選鉱が用いられる。細かくした鉱石を水や薬剤と混ぜ、鉱物の表面の性質の違いを利用して気泡へ付着させ、泡とともに集める。そこまで進めて初めて、モリブデンを濃縮した精鉱になる。

「鉱石が豊富なら、たくさん造れるんですよね」

「鉱石の中から、どれだけ取り出せるかが重要です」

 ピーターは白紙へ数字を書いた。

「説明用に、鉱石100万トン、モリブデンの品位を0.1%としましょう。含まれるモリブデンは1000トンです。しかし、選鉱で全部を回収できるとは限らない。回収率が80%なら、精鉱へ移せるモリブデンは800トンです」

 森川は数字を追って頷いた。

「精鉱の量が800トンですか」

「モリブデンの量が800トンです。精鉱には硫黄なども含まれるので、商品の重さとは違う。たとえば精鉱中のモリブデンが50%なら、単純計算で精鉱は1600トンになります」

 森川は、自分の書いた「生産量」という言葉に線を引き、その下へ鉱石、精鉱、含有金属量と分けて書き直した。

 鉱山の報告に大きな数字が載っていても、それが掘った岩石の量なのか、製品の量なのかで意味はまるで違った。さらに、回収率を上げようとして工程を増やせば、薬剤、電力、設備に費用がかかる。多く回収できることと、利益が多くなることも同じではなかった。

「含有量が同じなら、精鉱の品位が高いほうが、運ぶ量は少なくなるんですね」

「そうです。逆に、選鉱する前の岩石を長距離運べば、金を払って大量の不要な岩を運ぶことになる」

 ピーターは経路図へ顔を向けた。

「だから、何をどこまで現地で処理するかによって、必要な輸送設備も変わります。線路がある、それだけでは計算は終わりません」

 嘉一は、地図の上に細く引かれた鉄道を見ていた。草原に残っていたレールと、その向こうの建物が一瞬思い出されたが、森川に話したのは別のことだった。

「現地では、動いていない設備を一つずつ見る。使えるようにする費用と、その後ずっと払い続ける費用を分けないといけない。買う値段だけなら、いくらでも安く見えるんだ」

 ピーターが頷き、別の資料を広げた。

「今は、再開の条件を詰めています。買い手に見せる試料を揃え、選鉱の成績を確認し、加工先と輸送の見積もりを取り直しているところです」

「売る相手は、製鉄会社ですか」

「最終的にはそこへつながります。ただ、精鉱をそのまま製鋼炉へ入れるとは限りません」

 精鉱中のモリブデナイトは二硫化モリブデンであり、そこから鋼への添加に適した形へ加工する工程があった。空気中で焙焼して酸化モリブデンへ変え、その酸化物を鉄とともに還元すれば、鉄とモリブデンの合金であるフェロモリブデンになる。製鋼側は自分たちの工程に合わせ、酸化物や合金といった形でモリブデンを加えるのである。

 同じモリブデンを含む商品でも、使う側が必要とする形と品質は違った。精鉱を買う加工会社、酸化物を買う会社、フェロモリブデンを使う製鋼所は、それぞれ確認する条件も違う。近見が加工を外部へ委託するなら、その歩留まりと費用を調べ、どの段階まで商品を持つのか決めなければならなかった。

「大同特殊鋼のような会社へ、最終的につながっていくんですね」

「ええ。ただし、こちらの鉱山から出たものだから、必ず使ってくださいとは言えません。価格も品質も合うことが必要です」

 ピーターは、顧客別に分けた需要の資料を示した。

 近見は、鉱山を見つけてから初めてモリブデンの買い手を探し始めた会社ではなかった。合金鉄や金属原料の取引があり、鋼材を使う顧客だけでなく、その鋼材を造る側とも付き合っていた。どの会社が、どの形で、どれほどの量を使い、どの条件なら新しい供給元を検討するかを、担当者が知っていた。

 その販売の仕事を持っていたから、供給する側へ入るという選択が生まれた。

「鉱山から買って売るだけなら、もっと少ない金で済みますよね」

 森川の問いに、ピーターは頷いた。

「済みます。出資しなければ、操業そのものの危険も負わずに済む。だから、すべての鉱山を買うわけではありません」

「では、今回はなぜ」

 嘉一は、ピーターの机に広がった資料を見ながら答えた。

「掘る価値のあるものが残っていて、売る先も考えられる。それなのに、設備と資金と取引関係が切れたために動いていない。そこへ僕らが入ることで、再び事業になるかもしれないからだよ」

 嘉一は、操業費の欄を指した。

「ただし、この数字が合えば、という条件付きだ。モリブデンがあることを証明しても、儲かることを証明したことにはならない」

 鉱山へ入れた資金は、明日売って取り戻せるものではなかった。選鉱設備を直し、人を雇い、電力を買い、製品が売れるまで操業を続ける必要がある。最初の見込みより金属価格が下がったり、回収率が悪かったりすれば、投じた資金を取り戻すまでの時間は延びる。

 一方、事業として成立すれば、近見は一度の売買差額だけでなく、生産に関わる利益と、継続して商品を販売する仕事を得られる。何年にもわたる供給が見込めれば、買い手もその前提で調達計画を立てられた。

「鉱山の権益と、商品を引き取る権利は、同じものではありません」

 ピーターが付け加えた。

「出資したから、生産物が全部自由になるとは限らない。どれだけ引き取り、どう価格を決め、誰が加工し、いつ支払うかは、契約で決める。そこを間違えると、鉱山は持っているのに、売る商品がないことにもなる」

 森川はペンを止めた。

 鉱山を所有するという言葉から想像していたのは、地図の上へ会社の旗を立てるようなことだった。実際には、その旗の下へ毎月金を送り続けながら、加工と販売と輸送の契約を幾重にもつなぎ、生産物が代金へ変わる道をつくらなければならなかった。

 ピーターの電話が鳴り、彼は受話器を取った。相手の話を聞きながら予定表をめくり、試料の分析結果が届く日を確認していた。

 嘉一は森川へ立つよう促した。

「次は、もう少し液体の多いところへ行こう」

 エネルギー部門のアラン・リードは、会議室へ入ってきた2人を見ると、資料を配りながら訊いた。

「森川君は、原油の価格を聞いたことがある?」

「1バレル何ドル、というものですよね」

「その価格で、好きな油を、好きな港へ、好きな日に届けてもらえると思う?」

 森川は、今度はすぐに頷かなかった。

「種類と、場所と、時期が違うんですね」

「今日は順調に勉強しているようだな」

 アランが嘉一を見ると、嘉一は椅子を引いた。

「ピーターが数字を書き始めたからね」

 テーブルに置かれた資料の表紙には、BPアモコの名があった。しばらくすると、先方の取引担当者と物流担当者が到着し、挨拶を交わして席に着いた。森川も紹介されたが、会話はすぐに翌月の積み込み日程へ移った。

 今日の案件は、原油そのものではなく、ナフサの取引だった。

 ナフサは原油を精製する過程などで得られる比較的軽い炭化水素の混合物で、石油化学の原料として大きな用途がある。アランが示した数量は、一船分で2万5000トンだった。

 森川は、その数字を頭の中で荷台の大きさへ置き換えようとして、すぐにやめた。

 買い手は、近見が継続して原料を供給しているアジアの石油化学事業者だった。近見は、その会社だけでなく複数の顧客の購入予定と供給側の出荷予定を見ながら、船積みの大きさをまとめていた。

「このロットは、受入側の確認がまだです」

 アランが分析表を指した。

「硫黄は問題ない。こちらを見ている」

 BPアモコの担当者が別の欄を示し、佐伯とは違う技術者同士の言葉が、テーブルの上を行き来し始めた。

 森川には略号の多くが分からなかったが、午前中に見た材料の成分表とよく似ていると感じた。商品名が同じでも、中身まで一様ではないのだった。

 ナフサは単一の物質ではなく、さまざまな炭化水素から成る。沸点の分布や、パラフィン、ナフテン、芳香族などの構成によって、処理したときに得られる製品の割合が変わる。硫黄やその他の微量成分にも、受入設備ごとの条件があった。価格が安いという理由だけで仕入れれば、顧客の工場が欲しいものを、欲しい割合で造れない場合がある。鋼材の成分が加工や熱処理へ影響したように、こちらでは原料の組成が、工場の生産と収益へつながっていた。

「買い手の技術側から、今夕までに返事を取ります」

 アランが言った。

「そのあとの船腹は?」

「候補は押さえている。受入港の期間がずれた場合の費用も、別に出している」

 会議は品質から数量へ、数量から積み込み期間へ進んだ。港のタンク、船の受け入れ、書類が揃う日、代金の決済条件が順に確認された。

 嘉一は途中で、顧客側の受入期間と供給側の出荷期間を同じ紙へ書かせた。両方の期間には重なりがあったが、余裕は大きくなかった。

「品質の回答が遅れたら、船を先に決めるのか」

「費用の上限を決めてからにしたい」

 アランの返事に、嘉一は頷いた。

 森川には、会議の誰もが何万トンという数字に驚かないことが印象に残った。その代わり、数日の日程のずれや、分析表の一つの項目には、全員が注意を向けていた。会議が終わり、先方の担当者を送り出したあと、アランは森川の前へ計算用紙を置いた。

「仮に一船の仕入代金が450万ドルだとする。1トン当たりの売買差額が5ドルなら、2万5000トンで12万5000ドルになる」

「それが利益ですか」

「そこから、こちらが負担する輸送、保険、資金、検査、そのほかの費用を引く。売買差額の定義にもよるが、いまの計算ではまだ利益とは呼べない」

 森川は紙を見た。数百万ドルの商品を動かすことと、その金額に見合った利益が残ることは別だった。

「品質の不一致で引き取りが遅れたり、船が予定どおり入れなかったりすれば、薄い差額はすぐ消える。だから、さっきの確認をする」

「これを、毎月やっているんですか」

「顧客と品目による。同じ形の商売ばかりではないよ。ただ、一船で終わる仕事としては見ていない」

 アランは年間の予定表を広げた。そこには、ひと月分の出荷だけで何本もの線が引かれていた。顧客の定期修理がある月には購入量が減り、別の工場が動き始める時期には増える。供給者も一社ではなく、同じ会社から買う場合でも、積み出す場所と商品は変わった。

 森川は、2万5000トンという数字が、表の中では一本の線でしかないことに気づいた。近見の大きさは、会長室の広さより、この表のほうによく表れていた。一つの会社の机で決められた約束を前提に、各地の工場が原料を待ち、港がタンクを空け、船が日程を組んでいる。そこへ必要な資金は、計算用紙の端に書かれた売買差額よりはるかに大きかった。

「買い手が、BPアモコから直接買うことはできないんでしょうか」

 森川が訊くと、アランは頷いた。

「できる。実際、直接の取引もある。うちに任せる部分があるのは、うちが相手の必要な時期と数量をまとめ、供給先を探し、輸送と支払いまで扱うからだ」

「間に入っていることを、隠す必要はないんですね」

「隠したら、何の仕事をしているか説明できないだろう」

 アランは笑った。

「BPアモコにとっても、遠い国の工場ごとに小さな調整を繰り返すより、こちらへまとめて売る条件が合うことがある。もちろん、合わなければ売ってくれない。買い手にも、こちらを使う理由がなければ頼まれない」

 嘉一は予定表を畳むのを手伝いながら言った。

「だから、知っている相手が多いだけでは足りないんだ。約束した日に、約束した品質で届くようにして、金も払う。その仕事を続けて、次も任せてもらう」

 エネルギー部門を出る途中、森川は隣の机に積まれた化学品の資料へ目を留めた。

「ナフサからは、何ができるんでしょう」

 アランは、ちょうど通りかかった化学品担当の女性を呼び止めた。

「ジュリア、工場の入口の話をしたら、出口を聞かれた」

「それなら、こちらへどうぞ」

 ジュリア・ウェストは2人を自分の机へ招いた。壁には、石油化学の製品が枝分かれしていく系統図が貼られ、その脇にはBASFやバイエルなどの名が記されたファイルが並んでいた。

 ナフサを水蒸気とともに高温で分解し、冷却して成分ごとに分けると、エチレン、プロピレンなど、化学工業の出発点になる物質が得られる。そこから樹脂や繊維、塗料などへ至る工程が分かれていくため、一つの分解設備の生産は、その下流にある多くの工場へつながっていた。

 ジュリアはBASFの名が入った資料を手元へ寄せた。

「こういう大きな会社では、工場同士が深く結びついている。近見は、その全体を動かす会社ではない。でも、外から必要な原料を持ち込んだり、顧客のために製品を調達したり、その間で仕事をする」

 森川は系統図を見上げた。午前中には鋼材が歯車になり、設備へ組み込まれる道を見た。今は船一隻分の液体が、いくつもの製品へ枝分かれしていた。

「化学品も、価格だけで選べないんですね」

「純度、含まれてはいけない成分、容器、保管条件、届く時期。顧客の工程によって変わるわ。原料が一つ足りなくて生産が止まるなら、その原料自体の値段より、止まった工場の損失のほうが大きくなることもある」

 ジュリアは資料の一枚を嘉一へ渡し、別の案件について短く確認した。話が終わると、森川は鉱山の部屋で聞いたことを思い出したように訊いた。

「モリブデンも、鋼に入れる以外の使い方があるんでしょうか」

「石油を精製するときの触媒にも使うよ」

 嘉一が答えた。

「油に含まれる硫黄などを取り除く工程で、モリブデンを含む触媒が使われる。もちろん、鉱山の精鉱をそのまま持っていけばいいわけではなくて、用途に合う加工と品質が必要だけど」

 森川は、午前から開いていた手帳のページを戻した。

 特殊鋼材の成分表、カザフスタンの鉱石、原油を精製する設備。それぞれ別の部署の話だと思っていたものが、同じ元素を通じてつながった。

「では、今日見た仕事は、全部つながっているんですね」

「つながりはある。ただ、全部をうちの商品で埋める必要はない」

 嘉一は言った。

「鉱山のものを、高く買ってくれる相手へ売ることもある。鋼材の客に必要な原料を、別の供給者から買うこともある。自分たちの都合だけでつないだら、相手にとってよい商売にならないからね」

 執務室の窓には、すでに夕方の色が入り始めていた。ロンドンの一日が終わりに向かうころ、北米へ電話をかける社員が増え、午前中とは違う机で声が続いていた。

 嘉一の席へ戻ると、ヘレンが紙片を渡した。

「ピーターから。明日の朝、加工先の回答を一緒に見たいそうよ。それから、お父様が、帰る前に顔を出してほしいって」

 嘉一が紙片へ目を通している間、森川は窓際から執務室を見渡した。

 資源部門では、鉱石の分析結果を待っていた。機械部門では、英国の工場へ入れる設備の条件を詰めていた。エネルギー部門の予定表には、港と船と工場を結ぶ線が並んでいた。取引の規模も、扱う物も、時間の長さも異なっていたが、誰かが次の返事を待っていることは同じだった。

「会長は、これを全部把握されているんですか」

 嘉一は少し考えた。

「全部の書類を読むわけではない。ただ、大きな金を使う話や、会社として引き受ける約束は知っている。報告すると、こっちが忘れていたことを聞かれることもあるよ」

「例えば?」

「去年、その客は支払いが遅れただろう、とか。以前、同じ港で船を待たせたときはどうした、とか」

 森川は、朝の会長室で静かに署名をしていた嘉将を思い出した。

 机の上の書類は数枚だったが、その向こうには、今日見たような机がいくつも続いていたのだろう。嘉将が築いた会社の大きさを、森川はそこで初めて、建物でも社名でもないものとして感じた。

 嘉一は鞄を取り、ヘレンへ明日の予定を確認した。

「午前は海運の連中に会う。そのあと食品でいいね」

「ええ。船の話を聞いたあとなら、お昼に何を食べているかも気になるでしょう」

 森川が笑うと、ヘレンは机の上のウイスキーを指した。

「その前に、それを食品へ戻しておいて。今度こそ本当に探しているから」

 嘉一は瓶を持ち上げ、ラベルを確かめた。スコットランドの谷で見た蒸留所の名が、執務室の明かりの下に浮かんだ。

「分かった。これは僕が届ける」

 森川があとに続くと、嘉一は瓶を片手に歩きながら言った。

「明日は、これを誰に、どうやって買ってもらうかを聞こう」

 その声の向こうで、アランが電話の相手へ積み込み予定を読み上げていた。2万5000トンの原料が動く日を決める会話と、片手で持てる一本の酒の販路を探す仕事が、同じフロアの中で続いていた。