第一話 消えた軌間
第一章 草原の鉱山
1998年10月、カザフスタン。
列車がカラガンダを離れて一時間もすると、窓の外から町らしいものはほとんど消えた。低い丘と、黄褐色の草原。ときどき送電線が横切り、その向こうに貨物線が見える。何十両もの無蓋車をつないだ列車が、黒い煙を引きながら地平線の方へ動いていた。
近見=グレイ・嘉一はその列車を目で追った。
「石炭か」
向かいのピーター・ウォルシュが新聞を下ろした。
「たぶん。カラガンダ炭田でしょう」
「19世紀から採ってたんですね」
「詳しいですね」
「昨日読みました」
ピーターは新聞を畳んだ。
「昨日?」
「カザフスタンの鉱業史を少し」
嘉一の膝には三冊の資料が重なっていた。
Chikami Tradingの調査報告書。
鉱山会社から提出された鉱量資料。
そして、ロシア語の古い地質図。
嘉一は38歳だった。
一年前まで英国陸軍にいた。軍歴の最後は少佐。所属について本人から語ることはほとんどないが、ピーターは知っていた。
今は父・嘉将が率いるChikami Tradingに入り、資源、海運、インフラ案件を経験している。
Chikami Tradingロンドン支店資源部長、ピーター・ウォルシュ。48歳。
数字には強いが、冗談には弱い。資源部門ではピーターの方がはるかに先輩だった。だから嘉一も、分からないことがあれば普通に彼に訊いた。
ただし――訊く前にかなり調べてくる。それがピーターには少々やりにくかった。
嘉一が資料をめくった。
「ソ連の鉱山って面白いですね」
「どういう意味です?」
「英国や南アフリカの鉱山とは発想が違う」
ピーターが少し笑った。
「また何を読みました?」
「ソ連は鉱山だけ造らない。鉱床を見つけると、採掘場、選鉱場、発電設備、鉄道、労働者住宅、学校、病院までまとめて造る。コンビナートというやつでしょう?」
「だいたいそうです」
「企業城下町というより、国家が都市そのものを造るんですね」
嘉一は窓の外を見た。
「それが国ごと消えた」
1991年、ソヴィエト社会主義共和国連邦は崩壊し、その後、カザフスタンの鉱業は急激な混乱に入った。ソ連という巨大な経済圏の内部では、カザフで掘った鉱石をロシアやウクライナの工場へ送り、別の共和国から機械や部品を受け取ることができた。ところが国境ができた。取引相手も通貨も変わった。代金を払えない企業も増えた。
巨大な鉱工業コンビナートほど、その打撃をまともに受けた。実際、ソ連崩壊直後のカザフスタンでは鉱業・冶金コンビナートが市場喪失と資金難に陥り、1994年から96年ごろには民営化や外国・国内投資家への経営委託が進んでいた。今回の1998年という時代は、まさにその混乱の直後だった。
「だから買える」
ピーターが言った。
嘉一が振り返った。
「そういうことでしょ?」
「ええ。十年前なら、我々がこんな鉱山の買収交渉をすること自体があり得ません」
「ソ連国有財産ですからね」
「今は違う」
ピーターは窓の外を指した。
「設備は古い。資金もない。市場も失った。けれど、鉱床そのものが消えたわけではない」
嘉一は頷いた。
「だから西側の資本が来る」
「我々もその一つです」
今回、Chikami Tradingが買収を検討しているのは、カラガンダ州のモリブデン鉱山だった。
1971年操業開始、1989年休止。独立後の民営化を経て、現在の所有者はカザフスタンの実業家アレクセイ・グロモフ。
提示価格、1億8000万ドル。
すでに基本契約を締結し、Chikami側から手付も入っている。今回のデューデリジェンスで重大な問題が見つからなければ、最終契約へ進む。
嘉一が鉱石分析表を見た。
「ピーターさん」
「はい」
「この品位なら、問題は鉱石そのものより選鉱ですね」
ピーターが新聞を完全に置いた。
「いつそこまで勉強したんです?」
「だから昨日ですって」
「昨日の何時まで?」
「2時くらい」
ピーターは呆れた顔をした。
嘉一は気にせず続けた。
「主鉱物はモリブデナイト。MoS₂。輝水鉛鉱。名前は水鉛だが鉛じゃない」
「ええ」
「昔は鉛の鉱物だと思われていた」
ピーターが眉を上げた。
「そこまで必要ですか?」
「面白かったから覚えました」
実際、モリブデナイトは灰黒色で柔らかく、かつて鉛鉱物と混同された。モリブデンは現在では主に鋼材への合金元素として使われ、強度、靱性、耐摩耗性、耐食性などを高める。
嘉一が続けた。
「鉱石を砕く。さらに細かく粉砕する。それから浮遊選鉱」
「はい」
「そこでモリブデナイトを集めて精鉱にする。焙焼すれば酸化モリブデン。そこからフェロモリブデンにもできる」
「昨日までモリブデン鉱山を見たことは?」
「ありません」
「ですよね」
「だから見に行くんでしょ」
嘉一は笑った。
モリブデン鉱石は、採掘したまま売れるわけではない。まずクラッシャーで破砕し、ミルで細かく粉砕する。水と薬剤を加え、気泡を利用する浮遊選鉱によって目的鉱物を濃縮する。モリブデン鉱石の処理でも、破砕・粉砕から浮選を経て精鉱を得る工程が基本となる。
つまり鉱山買収では、地下にどれだけモリブデンがあるかだけを見ても意味がない。
掘れるか。砕けるか。濃縮できるか。水はあるか。電力はあるか。そして――運べるか。
嘉一は最後の項目に線を引いた。
「結局、鉄道かあ」
「そこがこの案件の魅力です」
ピーターが言った。
「新しく数十キロの道路や鉄道を造るなら、数字はかなり変わります。しかしこの鉱山にはソ連時代の専用線が残っている」
年間200万トンの鉱石を運搬できる専用線が、そのまま残っているという。それが本当なら安い。新しく敷けば、それだけで事業計画が変わる。
「現地側は、線路は使用可能だと言っています」
ピーターが資料を指した。
「橋梁と路盤の補修を入れても4000万ドル程度。予定通りなら3年で回収できます」
「幹線まで27.4キロ」
嘉一の返事に、ピーターが一瞬黙った。
「それも覚えましたか」
嘉一は窓の外を見た。遠くの貨物列車は、もう小さな黒い線になっていた。
駅前で待っていたダニヤル・ベコフは26歳だった。アルマトイで地質学を学んだカザフ人技師で、今回の調査チームに現地側から加わっている。
「Mr. Chikami=Grey?」
「Kazでいいですよ」
嘉一は手を差し出した。
「こちらはピーター・ウォルシュ。資源部門では俺よりずっと先輩だから、鉱山の話はまず彼に聞いてくれ」
ピーターが苦笑した。
「責任を押しつけないでください」
「事実でしょ」
ダニヤルが笑った。その後ろには白いラーダ・ニーヴァが停まっていた。嘉一は車を見ると、少し嬉しそうな顔をした。
「ニーヴァか」
「知っているんですか?」
「もちろん」
嘉一は車体を眺めた。
「モノコックの四輪駆動。70年代から基本設計がほとんど変わってない」
ダニヤルが驚いた。
「車も詳しい?」
「好きなんですよ」
運転席を見ると嘉一は指差して言った。
「俺が運転していいですか?」
ダニヤルが目を丸くした。
「この道を?」
「問題あります?」
「ここ、カザフスタンですよ。イギリス人ですよね」
「半分は」
白いニーヴァは草原を走っていた。舗装路など、とっくに終わっている。轍を拾って車体が跳ねるたび、後席のピーターが天井に頭をぶつけそうになる。
「Kaz」
「何です?」
「軍隊では、いつもこんな運転を?」
嘉一は前を見たまま答えた。
「もっとひどい車でしたよ」
助手席のダニヤルが吹き出した。
ピーターだけが笑わなかった。

鉱山までは一時間半かかった。嘉一は線路脇にしゃがんだ。舗装路を外れると、ニーヴァは草原を縫うような未舗装路へ入った。やがて地平線に巨大な人工物が現れた。
鉱山は巨大だった。露天掘りの穴が大地をえぐり、その底には不自然な青緑色の水が溜まっている。旧ソ連時代の選鉱施設。傾いたベルトコンベア。錆びたクレーン。鉄道。窓ガラスのほとんど失われた管理棟。そして、その向こうに灰色の集合住宅群。
嘉一が窓越しに見た。
「町まである」
ダニヤルが答えた。
「最盛期には鉱山とその家族で6000人ほど住んでいました」
「学校は?」
「あります」
「病院?」
「あります」
「映画館は?」
ダニヤルが笑った。
「あります」
嘉一はピーターを見た。
「本当に国家城下町ですね」
アレクセイ・グロモフは、鉱山事務所の前まで迎えに出てきた。
五十代半ばで大柄で、肩幅が広い。高価そうではあるが少しくたびれたスーツを着ている。英語は訛りが強かった。
「Welcome to Kazakhstan」
嘉一と力強く握手した。
「Chikamiさん。お父上にはモスクワで一度お会いしたことがあります」
「父から聞いています」
これは本当だった。
嘉将はグロモフについて、
――ソ連崩壊を生き残った男だ。数字はよく確認しろ。ただ、鉱山のことはよく知っている。
とだけ言っていた。
グロモフはピーターとも握手し、ダニヤルにはロシア語で何か言った。
ダニヤルが笑った。
「何て?」
嘉一が訊いた。
「英国人二人に鉱山を売る前に、ちゃんと鉱石を見せろ、と」
グロモフが嘉一を見る。
「あなた、ロシア語は?」
嘉一もロシア語で答えた。
「少しだけ。ゆっくりなら」
グロモフが笑った。今度はロシア語で、かなり速く何か言った。嘉一は半分ほど聞き取ってから首を振った。
「今のは速すぎます」
グロモフが豪快に笑った。
「正直でいい」
嘉一も笑った。第一印象は悪くなかった。むしろ嘉一は、この男を少し気に入った。

最初に坑口へは行かなかった。
グロモフが連れていったのは選鉱場だった。
「鉱山を見るなら、まずここです」
「なぜ?」
「石は嘘をつかない。しかし石だけ見ても金にはならない」
嘉一はその言い方を気に入った。
巨大な建屋の中には、停止した破砕機やボールミルが並んでいた。鉄の階段は錆び、窓ガラスの何枚かは割れている。
ダニヤルが設備を説明した。
「採掘した鉱石はまず一次破砕。その後、さらに細かくします」
嘉一が巨大な円筒形の装置を見る。
「ボールミル?」
「そうです」
「中に鋼球を入れて回す」
ダニヤルが振り返った。
「本当に初めてですか?」
「実物は」
嘉一はミルの外殻を軽く叩いた。
「本で見るよりでかい」
グロモフが笑った。
「ソ連人は何でも大きく造る」
「戦車も?」
「戦車は小さい」
四人が笑った。
奥に浮選設備が並んでいた。ダニヤルが床から黒灰色の鉱石片を拾い、嘉一へ渡した。嘉一は親指で表面を擦った。鈍い光沢の先に少し滑るような感触がある。
「モリブデナイト」
ダニヤルが頷いた。
「そうです」
「二硫化モリブデン。層状構造だから滑りやすい。それで潤滑剤にも使える」
ダニヤルが嘉一を見た。
「そこまで勉強したんですか?」
「鉱山を買うんですから最低限は」
モリブデン化合物には、合金以外にも触媒や潤滑用途がある。
嘉一は鉱石を返した。
「ただ、俺が知りたいのは化学式じゃない」
「何です?」
嘉一は停止した選鉱設備を見渡した。
「これをもう一度動かすのにいくらかかるか、です」
ピーターがようやく口を開いた。
「それなら私の出番ですね」
嘉一は少し頭を下げた。
「お願いします、先輩」
「急に日本人みたいになりますね」
「一応、日本人ですから」
グロモフが意味を尋ね、ダニヤルが訳した。
グロモフがまた笑った。
昼食は鉱山事務所だった。黒パン、肉、ジャガイモ、ピクルス。
グロモフはソ連時代、この鉱山で若い技師として働いていたという。
「81年に来ました」
「じゃあ、国営だった頃を全部知っている?」
嘉一が訊いた。
「ほとんど」
グロモフはパンをちぎった。
「当時、鉱山は会社ではない。国です」
「というと?」
「鉱山長は鉱石だけ考えていればいいわけではない。住宅の暖房、学校、病院、食料、鉄道。冬になれば全部問題になる」
嘉一は聞いていた。
「採算は?」
グロモフが笑った。
「英国人はすぐそれを聞く」
「半分は日本人です」
「日本人も聞く」
今度はピーターまで笑った。
グロモフはウォッカには手をつけず、紅茶を飲んだ。
「もちろん計画はありました。しかし西側の会社のように、一つの鉱山だけ切り出して利益率を見る世界ではない。ここでモリブデンを採る。それがどこかの製鉄所へ行く。国家全体で必要なら、ここは動く」
嘉一が窓の外を見た。止まったコンベヤの向こうに、住宅群が見える。
「それが91年に突然なくなった」
グロモフの表情が少しだけ変わった。
「ああ」
短い返事だった。
「昨日までモスクワから命令が来た。翌日から、自分で客を探せと言われた」
嘉一は何も言わなかった。
「機械はソ連製。部品はロシア。客はウクライナ。銀行はカザフ。全部ばらばらになった」
グロモフは肩をすくめた。
「国がなくなるというのは、国旗が変わることではない」
その言葉を、嘉一は覚えておいた。

午後、鉄道設備を見た。嘉一はここに最も時間をかけた。鉱石は価値があっても、運べなければ岩と同じだった。ソ連が広大な内陸部で鉱業を成立させられた理由の一つは、鉄道だった。鉱山と選鉱場、製錬所、工業都市を線路で結ぶ。この鉱山にも、幹線まで27.4キロの専用線がある。
「レールそのものは悪くないですね」
ピーターが言った。
嘉一はしゃがんでレール側面の刻印を見ていた。
「74年」
ダニヤルが覗く。
「ソ連製です」
「交換した部分だな。操業開始は71年だから」
嘉一は立ち上がった。
「橋梁は?」
「明日見ます」
「路盤排水も見たいです」
ピーターが嘉一を見る。
「鉄道まで勉強しました?」
「少し」
「少し、の基準がおかしいんですよ」
嘉一は笑った。
三人で線路沿いを歩いた。グロモフは別の来客があり、事務所へ戻っていた。やがて嘉一が止まった。
ポイントがある。南へ向かう本線とは別に、一本の線路が北へ分岐していた。草に覆われている。嘉一は何も言わず、鞄から折り畳んだ地図を出した。鉱山会社から提供された設備配置図だ。指で現在地を確認する。
もう一枚。1980年代のソ連製地形図。二枚を見比べた。
ダニヤルが訊いた。
「どうしました?」
嘉一は北へ延びるレールを指した。
「これがないんです」
「古い支線でしょう」
「でしょうね」
「使われていないと思います」
嘉一はしゃがんだ。
転轍機を見ると錆びている。しかし可動部の一部だけ、色が違った。嘉一が指先で触れると黒い油が付いた。
「最近、誰か動かしたな」
ダニヤルもしゃがむ。
「鉱山では使っていません」
ピーターが北を見る。
「どこへ行くんでしょう」
嘉一は地図をもう一度見た。
「分からない」
少し楽しそうだった。
「行ってみるか」
ピーターが腕時計を見る。
「一時間だけですよ」
「分かりました」
嘉一は素直に地図を畳んだ。
支線は草原を北へ延びていた。しばらく歩くと、鉱山の騒音さえ聞こえなくなった。枕木は古く、ところどころ砂に埋もれている。
嘉一は歩きながら、周囲の地形を見ていた。
「変だな」
ダニヤルが訊いた。
「何が?」
「鉱山のための線路じゃない」
「なぜ分かるんです?」
嘉一は少し先を指した。
「方向ですよ。鉱体も選鉱場も南側だ。わざわざ北へ出す理由がない」
さらに数百メートル進むと、嘉一がコンクリート製の小さな標柱を見つけた。苔を手袋で擦ると、数字が現れた。
1962
ダニヤルが声を出した。
「古い」
「鉱山より9年前だ」
ピーターが言った。
「では鉱山鉄道ではない」
嘉一は標柱を見ながら頷いた。
「たぶんね」
線路は低い丘へ向かっていた。三人は丘を越えたところで、足を止めた。谷間の斜面に、コンクリートの構造物が埋め込まれていた。正面には大きな鉄扉があり、レールは、その扉の前まで続いている。貨車がそのまま入れる幅だった。
ダニヤルが呟いた。
「これは……」
嘉一は答えなかった。
ソ連の鉱山について、この数日でかなり読んだが―――選鉱場、鉱石庫、火薬庫、機関車庫、変電所―――どれとも違う。嘉一は鉄扉より先に、地面を見た。
轍がある。新しい。
ピーターも気づいたのかぽつりと言った。
「廃墟ではなさそうですね」
嘉一はしばらく建物を見ていた。とてつもなく惹かれるものを感じるが、
「今日は戻ろう」
ダニヤルが意外そうな顔をした。
「見ないんですか?」
「見たい」
嘉一は正直に言った。
「でも俺たちの仕事じゃない」
ピーターが笑った。
「珍しく賢明です」
「珍しくは余計だ」
三人が線路を戻り始めると、遠くからエンジン音がした。振り返った丘の向こうから黒いUAZが一台現れた。さらにもう一台。速度を上げてこちらに向かってくる。
ダニヤルが言った。
「鉱山の車じゃありません」
嘉一はまだ動かなかった。UAZとの距離を測るように見ている。二百メートルほど。
そのとき助手席の窓が開き、嘉一の表情が変わった。
「戻るぞ」
三人は歩調を速めるとUAZも速度を上げた。
やがて嘉一が言った。
「走った方がよさそうだ」
ピーターは何も言わず走り出した。
乾いた破裂音が草原に響いた。
一発。
弾は三人から大きく離れた土を跳ねた。
ダニヤルが身をすくめた。
嘉一は走りながら一度だけ振り返った。
二発目は来ない。
UAZも一定以上は近づいてこない。
夕方。
鉱山事務所へ戻ると、グロモフが入口まで出てきて、話を聞くなり、顔色を変えた。
「撃たれた?」
嘉一が頷いた。
「一発だけ」
グロモフはダニヤルへロシア語で何か訊いたが、今度は笑っていなかった。
「警察へ連絡する」
「お願いします」
嘉一が答えた。
「北の線路は?」
グロモフが訊いた。
「古い軍用線ですか?」
「たぶん」
グロモフは少し考えた。
「ソ連時代、この辺りには軍の倉庫があったと聞いている。私が鉱山に来た頃には、あの辺は軍の管轄だった。鉱山の人間は入れなかった」
「何の施設か知っています?」
「知らない」
グロモフは肩をすくめた。
「ソ連では、知らなくていいことは知らない方が長生きできた」
ダニヤルが苦笑した。グロモフは嘉一の肩を軽く叩いた。
「今日はもう帰って休んでください。明日は私が警備をつけます」
「助かります」
「当然だ。あなた方は私の客だ」
グロモフは本当に腹を立てているように見えた。少なくとも嘉一には、そう見えた。
この時点で、嘉一はグロモフを疑っていなかった。むしろ、「面白い男だ。」そう思っていた。
白いニーヴァへ向かいながら、嘉一は一度だけ北の丘を振り返った。
1962年。鉱山より9年古い鉄道。地図から消えた支線。山腹の鉄扉。そして、わざと外されたように見えた一発の銃弾。
何なのかは分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
あの線路は、死んでいない。
退役して一年。
どうやらビジネスという仕事も――
思っていたほど退屈ではないらしい。
第二章 売れない鉱山
翌朝7時、ホテルの食堂には嘉一とピーターしかいなかった。窓の外では、古いラーダの排気が白く流れている。十月のカザフスタンは、朝になるともう冬の気配があった。
ピーターはコーヒーを一口飲み、顔をしかめた。
「昨日よりひどい」
嘉一はパンにバターを塗っていた。
「昨日と同じだと思います」
「慣れたんですか」
「諦めました」
テーブルには、鉱山の資料が広がっていた。
嘉一は昨夜、ホテルへ戻ってから2時間ほど契約書を読み、その後、鉱山の技術報告書を読み直していた。ページの端には細かな書き込みが増えている。ピーターがそれを見た。
「何時に寝ました?」
「1時半です」
「軍を辞めて、少しは普通の生活をする気はないんですか」
「してるつもりです」
「普通の会社員は出張先で180ページの技術報告書を読み直しません」
嘉一は紙を一枚抜いた。
「これ、どう思います?」
ピーターが受け取る。
選鉱試験の結果だった。
「実収率?」
「うん」
鉱石に含まれる金属のすべてを製品として回収できるわけではない。岩石を砕き、粉にし、目的鉱物を分離して精鉱を作る。その過程で必ず一部を失う。地下に一トンのモリブデンがあったとしても、一トン全部を売れるわけではない。そのうちどれだけを精鉱として回収できるか。それが実収率だった。
「82パーセント」
ピーターが言った。
「悪くないでしょう」
「試験室では」
ピーターが顔を上げた。
嘉一は別の資料を指した。
「こっちは87年の操業記録。実際のプラントでは74から78」
「なるほど」
「しかも鉱石品位が落ちてる」
嘉一は二枚を並べた。
「埋蔵量は十分ある。でも同じ量のモリブデンを作るには、昔より多くの岩を掘って、多く砕いて、多く選鉱しなきゃならない」
ピーターは資料を見直した。
「電力と水の使用量も増える」
「そう思う」
ピーターは少し笑った。
「もう鉱山屋になれますよ」
「昨日ダニヤルに同じようなことを言ったら笑われた」
「なぜ?」
「地質屋になるには十年早いそうだ」
「まともな青年です」
嘉一も笑った。
8時過ぎ、ダニヤルがニーヴァで迎えに来た。
昨日の銃撃については、地元警察へ届けが出されていた。黒いUAZ。発砲一回。それだけだった。車両番号も見えていない。
「警察は?」
嘉一が訊いた。
「探すとは言っています」
ダニヤルの言い方で、三人とも結果は期待していないことが分かった。
ピーターが後部座席から言った。
「グロモフは警備員を二人つけると言ってましたね」
「はい。鉱山から先には行くなとも」
嘉一が頷いた。
「今日は行かないよ」
ピーターが嘉一を見た。
「本当に?」
「仕事をしに来たんだから、まず仕事をする」
それは本心だった。北の支線は気になる。だが1億8000万ドルの鉱山を買おうという人間が、面白そうな廃線を見つけたからといって、本来の仕事を放り出すわけにもいかなかった。
この日は採掘現場から始めた。坑内へ入る前に、ダニヤルが地質図を広げた。
「この鉱床は単純な一本の鉱脈ではありません」
嘉一がしゃがみ込む。
地図には赤、青、緑の線が複雑に入り組んでいる。
「花崗岩?」
「主に。ここへ熱水が入っています」
ダニヤルは鉛筆で地下断面をなぞった。マグマが冷えて固まる過程では、最後まで残った熱水に金属元素が濃集することがある。それが岩石の割れ目を通り、温度や圧力が変化すると、金属を含む鉱物が析出する。
銅。タングステン。錫。そしてモリブデン。
モリブデン鉱床には斑岩型などいくつかのタイプがあり、銅鉱床の副産物として回収される場合も多い。鉱床の形態と鉱物組成によって、採掘法も選鉱法も変わる。
嘉一は断面図を見ていた。
「つまり、地下にモリブデンの塊があるわけじゃないんですよね」
「ありません」
ダニヤルが笑った。
「初めて鉱山を見る人は、金属の大きな塊が埋まっていると思うことがあります」
「俺も子供の頃はそう思ってました」
「実際には大量の岩石の中に、少しだけ価値のある鉱物が入っています」
嘉一が頷いた。
「だから品位が重要になる」
「そうです」
「〇・何パーセントの世界か」
「モリブデンなら、それでも鉱山になります」
嘉一は地質図を畳みながら言った。
「考えてみれば変な商売だな」
「何がです?」
「99パーセント以上いらないものを掘り出して、1パーセントにも満たないものを売る」
ダニヤルが笑った。
「鉱山とはそういうものです」
地下は寒かった。ヘルメットのライトに、湿った岩盤が浮かび上がる。坑道には古いソ連製のレールが敷かれ、小型の鉱車が残っていた。
ダニヤルが壁面を照らした。
「ここです」
黒灰色の筋が岩を走っている。
嘉一が近づいた。
「これが鉱体?」
「鉱化帯です」
嘉一はライトを動かした。資料で読んだものが、初めて三次元になった。地質図の一本の線。分析表の数字。鉱石標本。それがすべて、この岩盤の中でつながった。
「面白いです」
思わず口に出た。
ダニヤルが笑う。
「でしょう?」
嘉一はしばらく岩を見ていた。
考古学でも似た瞬間がある。文献で読んだ歴史が、地層や石壁として目の前に現れる瞬間だ。人間の歴史よりはるかに古い。数千万年、あるいは数億年という時間を経て形成された岩を、人間が掘り出す。そして1998年現在、それがロンドンの会議室でドル建てのキャッシュフローになる。嘉一には、その落差が面白かった。
昼前、選鉱場へ戻った。昨日は停止設備を外から見ただけだったが、今日は技術者を交えて内部を詳しく調べた。
ダニヤルが古いフローシートを壁に貼った。
破砕。
粉砕。
浮選。
濃縮。
乾燥。
嘉一は一番上から指で追った。
「鉱石を細かくすればするほどいいわけじゃないんでしょ?」
ダニヤルが嬉しそうな顔をした。
「そこに気づきましたか」
ピーターが横から言った。
「また昨夜勉強したんでしょう」
「少し」
ダニヤルが説明を続けた。
鉱石を砕く目的は、鉱物を岩石から解放することにある。粗すぎれば、モリブデナイトが不要な岩石とくっついたまま残る。しかし細かくしすぎてもよくない。粉砕には莫大な電力を使う。さらに粒子が細かくなりすぎれば、浮遊選鉱が難しくなる場合もある。
「つまり」
嘉一が言った。
「細かくするほど金がかかる。しかも細かくしすぎれば回収率まで落ちることがある」
「そうです」
「適当なところで止める」
「それを決めるのが選鉱技術です」
嘉一は巨大なボールミルを見上げた。
「鉱山って、穴を掘る仕事だと思ってましたよ」
「違いました?」
「巨大な化学工場ですね」
ダニヤルが頷いた。
「そして巨大な物流業でもあります」
ピーターが言った。
「さらに巨大な電力消費者でもある」
嘉一が笑った。
「だんだん嫌な商売に聞こえてきましたね」
午後は鉄道だった。専用線の状態を確認するため、四人は小型の保線車両で南へ向かった。
今日はグロモフも一緒だった。彼は古い作業服を着ていて、スーツよりこちらの方がはrかに似合っていた。
「80年代、この線路は一日何本走ってた?」
嘉一が訊いた。
「多い日は12本」
「全部鉱石?」
「精鉱、燃料、機械、食料。帰りには空車だけではない。町で必要なものは何でも鉄道で来た」
保線車両がゆっくり進む。左右には何もなく、ただ草原だけが広がる。
グロモフが遠くを指した。
「ソ連を理解したければ、道路ではなく鉄道を見るといい」
嘉一が振り向いた。
「どういう意味です?」
「この国は広すぎる」
グロモフは言った。
「モスクワから見れば、カザフスタンは資源庫だった。石炭、銅、鉛、亜鉛、クロム、ウラン。だが地下にあるだけでは国家には使えない」
レールを指した。
「だから線路を引く」
ソ連時代のカザフスタンは、石炭・非鉄金属・鉄鉱石などの大規模生産拠点として発展し、鉄道網は鉱工業地帯とソ連各地域を結ぶ重要な基盤になった。独立時には、こうした産業構造そのものが旧ソ連域内の分業を前提としていた。
「ジェズカズガンの銅も、カラガンダの石炭も、鉄道なしでは意味がない」
グロモフが続けた。
「鉱山を造る。線路を引く。町を造る。それで初めて資源になる」
嘉一は草原を横切る二本のレールを眺めた。
「ローマ街道みたいなものだな」
グロモフが嘉一を見た。
「ローマ?」
「帝国は道でできている」
嘉一は言った。
「軍隊を動かすために道を造る。道ができれば商人が動く。町ができる。帝国が消えても道は残る」
グロモフが笑った。
「考古学者ですね」
ピーターが振り返った。
「言いました?」
「昨日聞いた」
「余計なことまでよく話しますね」
グロモフは嘉一を見た。
「Oxfordでは考古学?」
「はい」
「それから軍人?」
「そうです」
「ずいぶん変わった転職だ」
「自分でもそう思います」
「そして今度は鉱山会社か」
「まだ鉱山会社じゃないです。商社です」
「次は何になる?」
嘉一は少し考えた。
「弁護士の勉強をしています」
グロモフが声を上げて笑った。
「あなたは何になりたいんだ?」
嘉一も笑った。
「俺にも分かりません」
夕方、鉱山事務所でグロモフがウォッカを出した。
ピーターが時計を見た。
「まだ仕事中ですが」
「カザフスタンでは仕事だ」
グロモフが言った。
嘉一は小さなグラスを受け取った。
「それなら仕方ないですね」
「Kaz」
「一杯だけです」
乾杯した。
グロモフは上機嫌だった。
「会社は父上が?」
「1960年に始めました」
「なぜすぐ会社へ入らなかったんだい?」
嘉一はグラスを置いた。
「軍人になりたかったからです」
「父上は反対した?」
「いや」
嘉一は少し考えた。
「近見は、もともと商人の家じゃないんです」
「何の家?」
「昔は武士です。熊本の。それから軍人の家系」
グロモフは興味を示した。
嘉一は大げさに語る気はなかった。肥後にいた古い家。曽祖父と祖父は国のために戦った。しかし国は負け、軍はなくなった。父の嘉将の代になって商売を始めた。それだけ話した。
「では父上は、息子が軍人になることを喜んだ?」
「喜んだかどうかはわかりません」
嘉一は笑った。
「ただ、止めなかった」
「英国軍に?」
「はい」
グロモフは少し不思議そうだった。日本人の父を持ち、Oxfordへ行き、その後Sandhurstへ進み、英国陸軍の将校になった。グロモフには確かに変わった経歴に見えただろう。
「階級は?」
「最後は少佐」
「どこにいたんだ?」
嘉一はグラスを指で回した。
「いろいろです」
ピーターが黙って紅茶を飲んでいる。
グロモフも、それ以上は訊かなかった。
「それで37歳で辞めて、父親の会社に戻った」
「そういうことです」
「そして一年後にカザフスタンでモリブデン鉱山を買っている」
「まだ買ってません」
「買うでしょう?」
嘉一は笑った。
「今のところは、そのつもりです」
グロモフは満足そうに頷いた。
「いい鉱山です」
「私もそう思い始めてる」
その夜、ホテルの部屋で、嘉一は机に向かっていた。英国契約法の教科書が開いている。その横には鉱山の買収契約書と地質報告書。
ノックがして、ピーターが入ってきた。机の上を見るなり、少し呆れた顔をした。
「何の勉強をしているのか、もう分かりませんね」
「俺もです」
ピーターはソファに座り、鞄から資料を取り出した。
「今日の数字をまとめました」
嘉一は教科書を閉じた。
「どうでした?」
「設備更新費は想定より上がります。ただし、致命的ではありません」
「鉄道は?」
「橋梁二か所に補修が必要。路盤も一部やり直し。ただ、新線を造るよりは圧倒的に安い」
嘉一は資料を受け取った。選鉱設備、電力、用水、鉄道、人件費、再稼働までの工程。
二日間かけて見てきたものが、少しずつ数字になっていた。
「採算は合いそうですね」
「モリブデン価格が大きく崩れなければ」
「鉱量は?」
「ダニヤルの見立てでは、今のところ大きな問題はない。もちろん追加調査は必要ですが」
嘉一は椅子にもたれた。
「買えそうですね」
「私もそう思います」
嘉一は少し嬉しそうだった。
「いい鉱山ですよね」
「古いですけどね」
「古いものは嫌いじゃない」
「知っています」
ピーターは机の上の契約法の教科書を見た。
「今夜くらい早く寝たらどうです?」
「これだけ読んだら」
「昨日もそう言ってましたよ」
嘉一は笑った。
ピーターは資料をもう一枚取り出した。
「それと、今回の取引には直接は関係ないんですが」
「何です?」
「この鉱山、以前にも売却交渉をしています」
嘉一が手を伸ばした。
「それは珍しくないでしょう」
「ええ」
ピーターが資料を渡した。
1994年、英国企業。
1996年、ドイツ企業。
1997年、韓国企業。
嘉一は順番に見た。
「三社か」
「はい」
「全部、不成立?」
「そうです」
「理由は?」
「そこまでは分かりません。いずれも現地調査までは進んでいます」
嘉一はもう一度三つの社名を見た。
ソ連崩壊から7年。政情も通貨も不安定だった。民営化された鉱山の所有権そのものに問題がある場合だってある。一億ドルを超える買収なら、最後まで進まなかった案件が三つあったところで、それだけでは何も意味しない。
「まあ、この時代ですからね」
嘉一は資料を返した。
「それだけじゃ何とも言えない」
「私もそう思います」
「一応、ファイルには入れておいてください」
「分かりました」
ピーターが資料を鞄へ戻した。
「それではおやすみなさい」
「Kaz」
「何です?」
「寝てください」
嘉一は笑った。
「努力します」
ピーターが部屋を出ていった。
一人になると、嘉一はもう一度、買収契約書を開いた。
1億8000万ドル。安い買い物ではない。だが鉱床があり、選鉱設備があり、鉄道がある。
直すべきものは多い。それでも、ゼロから造るよりはずっといい。何より嘉一は、この鉱山そのものを気に入り始めていた。
そして、グロモフという男も。
翌日も調査は続いた。グロモフは昨日と変わらなかった。朝から現場の技師を集め、古い図面を出し、嘉一たちの質問に答えた。分からないことは分からないと言った。悪い数字を隠そうともしなかった。排水設備、変電所、旧坑道の換気設備と調べれば調べるほど、直さなければならないものは増えていく。だが、致命的な問題は見つからなかった。
午後、事務所へ戻るとピーターが計算機を叩いた。
「設備更新費は当初想定より2000万ドルほど増えそうです」
グロモフが言った。
「その程度なら安い」
嘉一が振り返った。
「売る側はそう言いますよね」
「買う側は何でも高いと言う」
「正しい」
グロモフが笑った。
嘉一も笑った。
この二日間で、嘉一はグロモフをかなり気に入っていた。
ソ連時代の鉱山を知っており、技術者としての話はとても興味深く、商売人としても抜け目がない。何より、話していて退屈しなかった。
帰り際、グロモフが言った。
「明日は南側の橋を見るんだろう?」
「その予定です」
「保線の責任者をつける。建設当時からこの線路を知っている」
「助かります」
グロモフは少し間を置いた。
「北へは行くなよ」
嘉一が苦笑した。
「分かってますよ」
「本当か?」
「今日は行かなかったでしょう」
「今日は、な」
二人は笑った。
ホテルへ戻る途中の町へ入ったところで、嘉一が窓の外を見た。
「ダニヤル」
「はい?」
「ちょっと止めてもらっていい?」
ダニヤルがニーヴァを路肩へ寄せた。
「どうしました?」
嘉一は窓の向こうを指した。その先に小さな市場があった。
食料品、古着、工具、食器、タイヤ。ソ連時代の徽章や軍帽まで並んでいる。
「少し見ていい?」
後部座席のピーターが腕時計を見た。
「少し、ですよ」
「分かってます」
「昨日も聞きました、それ」
嘉一はもう降りていた。市場には、ソ連崩壊後の混乱がそのまま商品になったようなものが並んでいた。古いカメラ、双眼鏡、腕時計、軍用らしい飯盒、何に使うのか分からない機械部品。嘉一が一軒ずつ覗いていく。
「Kaz」
ピーターが後ろから言った。
「こういうところ好きでしょう」
「かなり」
「でしょうね」
一軒の店で嘉一が止まった。馬具を売っていた。古い鞍に鐙。革袋と手綱。その中に、編んだ革の鞭が何本かあった。
嘉一が一本を手に取った。
「これは?」
ダニヤルが覗いた。
「カムチャです」
嘉一がその言葉を繰り返した。
「カムチャ」
「馬に乗るときに使います」
「カザフの?」
「ええ。昔からあります」
嘉一は鞭を眺めた。柄にも革が巻かれている。使い込まれ、黒く艶が出ていた。新品ではない。
「これ、古そうだな」
店主が何か言った。
ダニヤルが聞き返した。
二人でしばらく話す。
「何て?」
「店主のお祖父さんが使っていたそうです」
嘉一が店主を見る。老人は真顔で頷いている。
「本当かな」
ダニヤルが笑った。
「分かりません」
「こういう話はどこの国でも同じだな」
嘉一は柄を見た。革の編み方を確かめる。考古学をやっていると、古い道具を見るとつい手が止まる。豪華なものではない。むしろ、何十年も誰かが日常で使っていた物の方が面白かった。
「騎馬民族って、こういう物をずっと使ってきたんだろうな」
「今でも使いますよ」
「そうか」
嘉一は少し嬉しそうだった。
「いくら?」
店主が数字を言った。
ダニヤルが訳す。
「2000テンゲ」
「高い?」
「高いです」
「やっぱり」
「完全に外国人価格です」
嘉一は店主に向かって言った。
「1000」
店主が即座に首を振って、何か長く言う。ダニヤルが笑った。
「何て?」
「英国人はカザフの文化を尊敬しないのか、と」
嘉一も笑った。
「尊敬してるから買うんだ。1200」
また店主が何か言う。
「1800」
「1300」
「Kaz」
ピーターが呆れたように言った。
「鉱山だけじゃなく鞭まで値切るんですか」
嘉一は店主から目を離さなかった。
「買い物ですから」
結局、1500テンゲになった。
店主と握手して、嘉一はカムチャを丸めた。
ピーターが訊いた。
「それ、どうするんです?」
「別に」
「別に?」
「面白いから買っただけです」
ニーヴァへ戻ると、嬉しそうに嘉一はカムチャを助手席の足元へ放り込んだ。

翌朝、南側の鉄道橋を調べた。橋は二本の鋼製桁からなる古い構造で、橋脚には補修跡があった。
グロモフが寄越した保線責任者は六十歳を過ぎた男で、嘉一たちが図面を見るより先に、
「三番橋脚を見ろ」
と言った。
確認すると、本当にそこが一番傷んでいた。
ピーターが感心した。
「図面より人間の方が正確ですね」
嘉一が言った。
「30年見てる人には勝てませんよ」
昼過ぎまで橋を調べたが、結論は悪くなかった。補修は必要だが、だが架け替える必要はない。
調査の帰りは再びニーヴァで移動した。ダニヤルが運転席に乗り、夕方の草原を、ニーヴァは西へ走った。窓の外にはただ黄色い草に覆われた低い丘が広がり、遠くには送電線が見えた。
後部座席に座ったピーターが資料を閉じながら言った。
「この案件の着地はほぼ見えましたね」
「買えそうですか?」
「値段次第です」
嘉一が笑った。
「そこは俺も参加できますね」
「余計な値切りはしないでください」
「昨日うまくいったでしょう」
「鞭と鉱山を一緒にしないでください」
ダニヤルが運転しながら笑った。
そのとき、バックミラーに黒い車が見え、嘉一の笑顔が消えた。
「ダニヤル」
「はい?」
「後ろの車」
ダニヤルがミラーを見る。
「UAZです」
ピーターが振り返った。
距離はあるが、同じ道を走っている。
白いニーヴァが速度を上げると、後ろの黒いUAZも、同じように速度を上げた。
嘉一はバックミラーを一度だけ見たが、昨日と違って、今度は笑わなかった。
偶然かもしれない。
一分。
二分。
ダニヤルが分岐を曲がった。UAZも曲がった。
ピーターが言った。
「またですか」
嘉一は後ろを見た。
「たぶん」
「警察へ?」
「町まで戻れれば」
その直後だった。前方の道に、もう一台のUAZが現れた。横向きに止まって道を塞いでいる。
ダニヤルが速度を落とした。
「まずい」
ニーヴァが止まり、後ろのUAZも止まった。
前のUAZから二人、後ろの先にUAZから二人、合計四人。
一人が拳銃を持っていたが、銃口は下を向いている。もう一人は太い木の棒を持っていた。
「殺しに来た感じじゃないな」と嘉一が言った。
「そこ、安心するところですか?」
「多少は」
嘉一はシートベルトを外した。
「二人はここにいてください」
「Kaz」
「まず話します」
「昨日撃たれてますよ」
「だから、何が目的なのか聞きたい」
嘉一がドアを開け、足を地面へ下ろし、そのまま男たちへ歩いていく。冷たい風が草を揺らしていた。
先頭の男がロシア語で言った。
「帰れ」
嘉一は立ち止まった。
「ホテルへ?」
「国へだ」
「それは困るな」
嘉一は答えた。
「まだ鉱山を買ってない」
男が拳銃を少し持ち上げた。
「買うな」
「なぜ?」
「お前には関係ない」
嘉一は男を見た。
「俺が買う鉱山なんだから、かなり関係あると思うけど」
返事はなかった。
嘉一が訊いた。
「昨日撃ったのも、あんたたちか?」
男の顔がわずかに動いた。嘉一はそれを見逃さなかった。
「やっぱりそうか」
「最後だ」
男が言った。
「帰れ」
嘉一は少し考え、それから首を振った。
「断る」
男の後ろにいた一人が、木の棒を握り直した。
嘉一は「やれやれ」と低くつぶやいた。
第三章 買主
木の棒を握りしめた男が一歩前に出たが、嘉一は動かなかった。
「帰れ」
もう一度、拳銃の男が言った。
「帰れば、それで終わりだ」
嘉一はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
昨日の一発は大きく外れていた。そして追っても来なかった。撃つつもりなら、こんなやり方はしない。
「殺す気はないんだな」
男の眉が動いた。
「何?」
「昨日も今日もだ。俺たちを殺したいんじゃない」
嘉一は男を見る。
「帰らせたいだけだ」
男は答えなかった。
「誰に頼まれた?」
「黙れ」
「金を払ったのは誰だ?」
棒を持った男が歩いてきた。
「車に戻れ」
嘉一はそちらを見た。
「それはできない」
男が棒を振った。嘉一が身体を引くと棒が肩をかすめた。
さらに棒で殴りかかってくる。今度は腕で受けたので鈍い痛みが走った。
「Kaz!」
ピーターの声がした。
嘉一は男の胸を押し返し、睨み合った。
二人目もこちら向かってきたので、嘉一は後ろへ下がった。
一対二。
さらにもう一人が嘉一の横へ回りこむ。
これで三人。
拳銃の男はまだ銃口を下げていて動かない。
嘉一はそこを見ていた。
――やはり撃つつもりはない。
少なくとも、今は。
男がまた棒を振りかざしてきたので、嘉一はそれをかわし、男を突き飛ばした。そして横から回り込んだ男にスーツの裾を掴まれ引きずられそうになる。
38歳。昨年まで軍人だったとはいえ、三人を相手に素手で映画のように勝てるほど人間は便利にはできていない。嘉一はそれをよく知っていた。
スーツを引っ張られたまま頬を殴られた。続いて、脇腹。一瞬息ができなくなる。それでも倒れず、身体を捻って男の手を外し、距離を取った。
男たちも一度止まった。嘉一の唇から血が出ていた。棒の男が笑った。
「帰れ」
嘉一は唇を拭った。
「そればっかりだな」
男がまた攻撃しようとしてきたので、嘉一はニーヴァの方へ下がった。
ドアまで三歩。二歩。
棒が振られる。嘉一は避けた。棒がニーヴァの屋根を叩いた。金属音が響く。ダニヤルが車内で身をすくめた。嘉一は助手席のドアを開けた。男がコートを掴む。嘉一は半ば引きずられるように車内へ手を伸ばした。
指先に革が触れた。
掴み、引き抜いた。
昨日、市場で買ったカムチャだった。
男たちが一瞬止まった。
嘉一自身も、手の中のものを見た。編まれた古い革。
ピーターが車内から言った。
「まさか」
再び、棒が音を上げて向かって来た。
嘉一が腕を振ると、鞭がしなった。しなったカムチャの先で乾いた音がした。男が思わず顔を背けた。
嘉一はそこで初めて理解した。軽くとてもしなやかだ。嘉一は遊牧民ではない、カムチャを使った経験もない。昨日まで触ったことさえなかった。だが、手にした道具の長さと重さを把握するのに、それほど時間はかからなかった。
次に棒を持った男が近づいたとき、さっきまでとは様子が変わった。男が躊躇した。それで十分だった。
嘉一が前へ出てカムチャを振ると、男が握りしめていた棒が地面に落ちた。男も膝をついた。
二人目が横から来たが、嘉一はまともに相手をせずに、ニーヴァの周りを回った。
ピーターが車内から叫んだ。
「私は何をすれば!?」
「邪魔しないでください!」
「それなら得意です!」
三人目が嘉一を掴もうとしたが、嘉一は再び身体をかわした。古いカムチャがまた鳴った。
男が腕を押さえながら、苦痛で顔を歪めた。その瞬間、嘉一が間合いを詰めた。
今度は鞭ではなかった。嘉一の拳による短い一撃によって男が倒れた。
最初の男が立ち上がろうとしたが、嘉一が眼光をそちらに向けると男は戦闘意欲を失ったようだった。
残ったのは拳銃の男だけだった。
さっきまで下を向いていた銃口が、今度は嘉一を向いていた。

空気が変わり、嘉一も止まった。ピーターも、ダニヤルも動かなかった。拳銃の男の顔から余裕が消えている。嘉一はカムチャを下ろした。
「やめとけ」
英語で言ったが、通じないようだ。ロシア語で言い直した。
「撃つつもりで来たんじゃないだろ」
男は答えない。
「今撃ったら、話が変わる」
銃口が揺れたが、嘉一は動かなかった。
数秒睨み合った後、銃口が下がった。嘉一は大きく息を吐いた。
「そうだ。それでいい」
男が何か吐き捨てたが、嘉一には半分しか分からなかった。
だが、その中に一つだけ、はっきり分かる名前があった。
――グロモフ。
嘉一の顔から表情が消えた。
「今、何て言った?」
男は黙った。
嘉一が近づいた。
「グロモフと言ったな」
男は答えなかった。嘉一はしばらく何も言わなかった。
昨日までの二日間が、頭の中で逆向きに流れた。
北へ行くな。警察を呼ぶ。保安員を付ける。古い図面を出す。笑う。冗談を言う。
そして――
昨夜ピーターが見せた三つの社名。
嘉一がピーターを見た。
ピーターも同じことを考えている顔だった。
「三社」
「ええ」
「ダニヤル」
「はい」
「ホテルへ戻ろう」
「警察は?」
「その前に調べたいことがある」
嘉一は助手席に乗ってカムチャを膝の上においた。
「Kaz」
「何?」
「それ、使ったことあったんですか?」
嘉一は膝の上の古い鞭を見た。
「ないよ」
「ない?」
「昨日初めて触った」
ダニヤルは何も言わなかった。
ピーターが後部座席から言った。
「もう驚くのはやめた方がいいですよ」
嘉一が振り返った。
「俺だって驚いてますよ」
「何に?」
嘉一はカムチャを持ち上げた。
「1500テンゲなら、いい買い物だったなと思って」
ピーターが目を閉じた。
「そこですか」
ホテルへ戻ったのは午後六時を過ぎていた。
ピーターはロンドンへ電話し、嘉一はシャワーを浴び、切れた唇を消毒した。
脇腹が痛む。左腕には棒を受けた跡が残っていた。軍を辞めて一年。こういう痛みとはもう縁が切れたと思っていた。
部屋へ戻ると、机には、昨日の三社の資料が置かれていた。ピーターが転がるように部屋で戻ってきた。嘉一がピーターに向かって短く言った。
「俺、ちょっとグロモフのところにいってきます」
ピーターが時計を見た。
「今から?」
「今から」
「明日では?」
嘉一は立ち上がった。
「こういうのは、一晩置くとろくなことにならないでしょう」
ピーターはため息をついた。
「その判断は、軍人としてですか。商社マンとしてですか」
嘉一はジャケットを取った。
「まだ商社マンになって一年なので」
「では?」
「軍人の方で」
鉱山事務所にはまだ灯りがついていた。
グロモフは技師二人と夕食を食べていた。
嘉一を見ると笑った。
「Kaz。どうした」
嘉一の顔を見て、笑顔が消えた。
「その顔は?」
「ちょっと転びまして」
グロモフは立ち上がった。
「何があった」
「話があります」
技師たちが出ていき、扉が閉まった。嘉一は椅子に座った。ピーターが三枚の紙を机に並べた。グロモフが見た。
嘉一が言った。
「94年、英国」
一枚。
「96年、ドイツ」
二枚。
「97年、韓国」
三枚。
グロモフは黙っている。
「昨夜聞いたときは、別に何とも思わなかったんです」
嘉一は続けた。
「売却交渉が三回流れた。それだけなら珍しくない」
グロモフが椅子に座った。
「そうだ」
「三社とも手付を払ってる」
グロモフの目が、ほんの少し動いた。
「契約だからな」
「そして三社とも現地調査まで来て、自分から撤退してる」
「それが何だ」
「手付は返してない」
「契約だからだ」
嘉一は頷いた。
「そこまではいい」
一枚を指で叩いた。
「韓国の会社は、ここで脅されてる」
グロモフは答えなかった。
「車で追われた。ホテルにも警告が来た」
もう一度、紙を叩く。
「最後には撃たれた」
沈黙。
嘉一は椅子に深く座った。
「俺たちと同じだ」
グロモフが嘉一を見る。
「偶然だ」
「そうかもしれない」
嘉一はあっさり認めた。
「だから今日までは、俺も分からなかった」
「今日?」
嘉一は切れた唇に触れた。
「さっき四人に襲われた」
グロモフは何も言わない。
「そのうち一人が、あんたの名前を言った」
初めて、グロモフの顔が変わった。ほんのわずかだったが、十分だった。嘉一は前へ身を乗り出した。
「アレクセイ」
声は穏やかだった。
「最初から鉱山を売る気なんかなかったんじゃないんですか?」
グロモフは黙っている。
「買主を探す。契約する。手付を取る。現地調査まで来させる」
嘉一は三枚の紙を順番に指した。
「そこで脅す」
一枚目。
「帰らなければ、もう少し脅す」
二枚目。
「それでも帰らなければ撃つ」
三枚目。
「買主は社員の安全を優先して撤退する」
嘉一は手を止めた。
「手付はあんたのものになる」
グロモフの顔から、
昨日までの人懐っこい笑みは完全に消えていた。
嘉一が言った。
「鉱山も残る」
沈黙。
「だから、また売れる」
長い沈黙だった。
やがてグロモフが立った。棚からウォッカを出し、グラスを二つ置いた。
嘉一が言った。
「ピーターもいますよ」
グロモフがもう一つ出した。
ピーターが言った。
「私は結構です」
グロモフは三つ目を戻すと、ウォッカを注ぎ、嘉一の前へ置いた。
嘉一はグラスを見た。
「お前は何なんだ」
嘉一は少し考えた。
「ビジネスマンです。新米ですが」
グロモフが笑った。
小さな、諦めたような笑いだった。
嘉一はウォッカを一口飲んだ。
「それで」
「何だ」
「値段の話をしましょう」
グロモフが顔を上げた。
「……何?」
「鉱山ですよ」
嘉一は三枚の紙を脇へ寄せた。
「俺、まだ買う気なんです」
グロモフはしばらく嘉一を見て、そして、今度は本当に笑った。
「お前、頭がおかしいのか」
嘉一は机の上の契約書を引き寄せた。
「1億8000万ドルでしたよね」
「ああ」
「高いな」
「昨日まで何も言わなかっただろう」
「昨日までは撃たれてなかったから」
グロモフの笑いが止まった。嘉一は椅子に座り直した。
ピーターが横で資料を開く。
「では」
嘉一が言った。
「最初からやり直しましょうか」
第四章 価格交渉
ピーターが資料を机に広げた。
「では、買収価格を再計算します」
グロモフがウォッカのグラスを置いた。
「再計算?」
「デューデリジェンスの結果が出ましたから」
ピーターの声はいつもと変わらなかった。
嘉一は少し椅子を引いた。
ここからは自分よりピーターの仕事だった。ピーターは一枚目の資料を出した。
「まず選鉱設備。破砕設備は使えます。ただしボールミル二基のうち一基は大規模修繕が必要です。浮選設備も更新が要る」
「動く」
グロモフが言った。
「動くことと、商業運転できることは違います」
二枚目。
「排水設備。ポンプ二基更新」
三枚目。
「変電設備」
四枚目。
「鉄道。南側の橋梁補修、路盤整備」
グロモフが苛立った。
「そんなことは昨日から分かっていただろう」
「ええ」
ピーターは頷いた。
「ここまでは」
もう一枚を置いた。
そこには数字ではなく、短い英文が並んでいた。
グロモフがそれを見る。
「何だ」
「取引リスクです」
「何の?」
嘉一は切れた唇を指した。
「買主を殴る売主がいる」
「俺は殴っていない」
「人にやらせた」
「殺してはいない」
「そこを値段に反映してあげましょう」
グロモフが嘉一を睨んだが、ピーターが淡々と続けた。
「当初価格、1億8000万ドル」
計算機を叩いた。
「設備更新費の増加。鉄道補修。操業再開費用。さらに契約履行に関するリスクを加味すると――」
嘉一が言った。
「1億2000万」
ピーターは嘉一を見た。
「1億2000万ドルという数字は、どこから出たんです?」
「この辺かなと」
「鉱山は市場の鞭じゃないんですよ」
嘉一が笑った。
「分かってます」
グロモフは笑わなかった。
「6000万ドルも下げるつもりか」
「まずはね」
「1億7500万でどうだ」
「1億2000万」
「ふざけるな」
「交渉でしょう」
「それは交渉じゃない」
嘉一はピーターを見た。
「だそうです」
「私もそう思います」
「先輩、どっちの味方です?」
「会社です」
嘉一は黙り、ピーターが資料へ戻った。
「我々が算定した適正価格は、1億4000万ドル前後です」
嘉一が言った。
「じゃ、1億2500万」
「なぜ私が言った後で下げるんです?」
「交渉だから」
ピーターが額を押さえた。
「1億7000万」「1億3000万」
「1億6000万」「1億3000万」
「動け」
「じゃあ1億3100万」
グロモフが嘉一を睨んだ。
「100しか動いてないぞ」
「動いたでしょう」
ピーターが小さく息を吐いて、それからグロモフを見た。
「1億3500万ドル」
嘉一が横を見る。
ピーターは続けた。
「現状の設備、鉄道、操業再開費用を考えれば、十分に公正な価格です」
「断る」
グロモフが即答した。
「1億5000万。それ以下なら売らない」
嘉一は黙り、ピーターも黙った。グロモフが言った。
「忘れるな。ここはカザフスタンだ」
「忘れてませんよ」
「鉱山は契約書だけでは動かない」
嘉一は聞いていた。
「鉱業当局。州政府。警察。銀行。鉄道。電力会社」
グロモフが指を折る。
「全部、この国の人間が動かしている」
「そうでしょうね」
「俺はここで30年仕事をしている」
その言葉には重みがあった。技師としてソ連時代から鉱山に入り、国が崩壊しても生き残った男だ。嘉一も、それを軽く見るつもりはなかった。
「お前たちが1億3500万で買ったとしても」
グロモフが言った。
「操業できなければ、ただの穴だ」
嘉一は頷いた。
「その通りです」
「なら分かるだろう」
「分かります」

嘉一はピーターを見る。
「いつもはこういうの、どうするんです?」
「どうする、と言われましても」
「俺、こういう買収初めてなんで」
グロモフが嘉一を見る。
「初めて?」
「鉱山はね」
「お前は何しに来たんだ」
「勉強です」
ピーターが言った。
「それと、余計なことをするためです」
「なるほど」
グロモフが初めてピーターに同情するような顔をした。
嘉一は気にしなかった。
「で?」
「昨日の時点で、ロンドンには報告しています」
ピーターが答えた。
「何を?」
「すべてです」
グロモフの表情がわずかに変わった。
ピーターは腕時計を見た。
「そろそろ結果が出ている頃でしょう」
オフィスの電話が鳴った。
「どうぞ。出てください」
グロモフは怪訝な顔をして受話器を取った。
グロモフは最初は笑っていたが、ロシア語で二、三分も話すと、途中から笑わなくなった。どうやら州政府の要人からだったようだ。
電話を切ると、立て続けに二本目の電話が鳴った。今度は銀行だった。会話は一分も続かなかった。
三本目の鉱業当局からの電話に出る頃には、グロモフの声が少し大きく、そして明らかな焦燥感が声に滲んでいた。相手の声は嘉一たちには聞こえないが、空気でわかった。
グロモフが何か大きな声で言い返したあと、電話を置くと、部屋が静かになった。
嘉一が訊いた。
「どうでした?」
返事はない。
そのとき、ピーターの携帯電話が鳴った。まだ珍しかった大きな端末を取り出す。
「Walsh」
英語でしばらく話した。
「Yes」
メモを取る。
「Understood. Thank you」
電話を切ったピーターに嘉一が訊いた。
「何て?」
「ロンドンです」
「それは分かります」
「取引銀行から先方銀行への照会が済みました。法務も現地事務所を通じて当局へ連絡しています」
「早いですね」
「1億8000万ドルの案件ですから」
「なるほど」
グロモフがピーターを見た。
「何をした」
ピーターは答えなかった。
グロモフが今度は嘉一を見る。
「お前、何をした」
嘉一は首を振った。
「俺は何もしてませんよ」
「嘘をつけ」
「本当に何もしてない」
嘉一は自分の顔を指した。
「今日は忙しかったから」
ピーターが言った。
「ロンドンが仕事をしただけです」
グロモフは二人を見比べた。
「あまり近見を甘く見ないほうがいい。これが武家のやり方です」
それまで彼が相手にしていたのは、38歳の元軍人と、口うるさい英国人の商社マンだった。少なくとも、そう見えていた。だが違った。Chikami Tradingは、ソ連が崩壊してから中央アジアへやって来た会社ではない。嘉一の父、嘉将はソ連時代からモスクワへ通っていた。資源を買い、船を動かし、機械を売り、銀行と取引した。国営企業とも政府とも付き合った。1991年に国境線が変わっても、商売そのものが消えたわけではなかった。そして1億8000万ドル規模の案件で、買収担当者が銃で脅された。それはもう、地方の鉱山主と外国人買主の喧嘩ではなかった。
グロモフが椅子へ座った。
「……1億5000万」
嘉一が言った。
「1億3000万」
「さっきより下がってるぞ」
「今、脅されたので」
「脅したんじゃない!」
「そうですか?」
ピーターが割って入った。
「1億3500万」
グロモフが睨むが、ピーターは動かなかった。
「これ以上は勧めません」
嘉一が横を見る。
「本当に?」
「本当にです」
「先輩がそういうなら、じゃあ、それで」
グロモフは二人を見た。
長い沈黙だった。窓の外で風が鳴っている。
やがてグロモフがウォッカを飲み干した。
「1億4000万」
ピーターが首を振った。
「1億3500万と決まりました」
「500万くらい出せ」
嘉一が言った。
「嫌です」
「お前、10億ドルの会社の人間だろう」
「だから500万ドルを大事にするんです」
グロモフが机を叩いた。
「500万だぞ!」
嘉一が頷いた。
「大金ですね」
グロモフはしばらく何も言わなかった。
そして突然、笑い始めた。腹を抱えるほどではないが。だが、本当に可笑しそうだった。
「分かった」
ピーターが確認する。
「1億3500万ドル?」
「ああ」
嘉一が手を出した。グロモフはその手をじっと見る。
「1億8000万だった鉱山だ」
「昨日までは」
「4500万ドルも値切りやがった」
「設備が古い」
「知ってただろう」
「橋も悪い」
「それも知ってた」
嘉一は自分の唇を指した。
「売主も悪い」
グロモフが苦笑した。
「俺はビジネスマンと仕事してるつもりだったが、何のことはない相手は強盗だったってわけだ」
嘉一も笑った。
「人聞きが悪いな」
手を差し出したまま言った。
「ビジネスマンですよ」
グロモフはその手を握った。
三日後。
1億3500万ドルで最終契約が締結された。必要な許認可、鉄道設備、選鉱場、鉱業権、周辺の社宅と関連施設、それらのすべてが契約に含まれた。
グロモフは最後の署名をすると、ペンを放った。
「これで満足か」
嘉一は書類をピーターへ渡した。
「かなり」
「二度とお前には物を売らん」
「残念だな」
嘉一は立ち上がった。
「そういえば」
グロモフが嫌な顔をした。
「まだ何かあるのか」
「ジープ」
「何?」
「鉱山を買ったら付けるって言ったでしょう」
数秒、グロモフは何も言えなかった。ピーターが横を向いて、笑いを堪えていた。
「Kaz」
「はい?」
「それくらい自分で買ったらどうです」
「契約は守らないと」
グロモフがロシア語で何か言った。嘉一には一部しか分からなかったが、少なくとも褒め言葉ではない。ダニヤルが吹き出した。
「何て?」
「知らない方がいいです」
「そうします」
グロモフは机の引き出しを開け、古い鍵を取り出すと、嘉一に向かって投げた。
「持っていけ」
「ありがとう」
「二度と返すな」
午後、古いジープは鉱山事務所の前に停まっていた。
嘉一はボンネットを開けて言った。
「悪くないな」
ピーターが呆れた。
「1億3500万ドル払って、そこが一番嬉しそうですね」
「これはタダですから」
「タダではありません」
ダニヤルが笑い、嘉一はボンネットを閉めた。
そのときだった。視線の先に、線路が見えた。鉱山から北へ分かれていく古い支線。
草に埋もれたポイント。1962年の標柱。
嘉一の様子にピーターが気づいた。
「駄目です」
「まだ何も言ってませんよ」
「分かります」
「もう俺たちの土地ですよね」
「その理屈が来ると思いました」
ダニヤルが訊いた。
「行くんですか?」
嘉一はポケットの鍵を鳴らした。
「せっかく車ももらったし」
ピーターが空を見上げた。
「私はホテルで契約書を整理したいのですが」
嘉一は笑った。
「先輩がいないと困ります」
「こういう時だけ先輩と言うのはやめてください」
三人はジープに乗った。
線路は、北へ延びていた。最初の数キロは、以前歩いた場所だった。草に埋もれたレール。
腐った枕木。ところどころ消えたバラスト。1962年の標柱を通過するとその先から、線路は丘陵の間へ入っていった。
嘉一は速度を落とした。
「変だな」
ダニヤルが訊いた。
「何がです?」
「鉱山のための線路なら、鉱山より九年前に造る理由がない」
「軍用だったんでしょうか」
「たぶん」
ピーターが後ろから言った。
「今日は銃を持った人間はいないでしょうね」
「それを俺に聞かれても」
「あなたといると、確認したくなるんです」
十分ほど進むと、やがて山腹が見えた。最初の日に遠くから見た、巨大な鉄扉があり、近くで見ると、想像以上に大きかった。鉄道車両がそのまま入れる幅がある。だがレールは扉の前で土に埋まっていた。
嘉一は車を降り、近づいていった。コンクリートの壁と錆びた鉄扉。その脇に、文字が残っていた。
ロシア語だった。
ダニヤルが埃を払った。
「軍の施設ですね」
「何て書いてある?」
ダニヤルが読んだ。
「……保管施設。第十二区域」
「何の?」
「そこまでは」
嘉一はコンクリートを見る。
造りが鉱山施設とは違う。厚く窓がない。入口の上部には、古い換気設備らしい構造。線路は扉の向こうへ続いている。
ピーターが言った。
「開けるんですか?」
嘉一は鉄扉を見上げた。
「開けたい」
「でしょうね」
「ただし、いきなりはやめましょう」
ピーターが少し意外そうな顔をした。
「何です?」
「いや。あなたにも理性が残っていたのかと」
嘉一は扉の脇へ回った。錆びた配電盤。切断されたケーブル。古い換気口。地面にはレールが二本、そのまま扉の下へ潜っている。
「閉鎖施設なら、酸欠もある。崩落もある。昔の軍用施設なら、何が残ってるか分からない」
ダニヤルが頷いた。
「鉱山の保安班を呼びます」
「お願いします」
嘉一は鉄扉に触れた。
冷たかった。
「34年待ってたんだ。あと一日くらい待てるだろ」
翌朝、鉱山の保安担当者二人と、電気技師が加わった。古い鉄扉は電動では動かなかった。
脇に機械式の非常開放装置が残っていた。開けるまでに二時間かかったが、低い金属音とともに、扉が少しずつ動き、暗闇が現れた。
ダニヤルが向けたライトの先には線路があった。外から続いてきた二本のレールが、そのまま山の中へ延びている。
黙って見ている嘉一にピーターが横から言った。
「満足ですか?」
「まだ入口ですよ」
「訊いた私が馬鹿でした」
内部は、鉱山ではなく、最初の百メートルほどは一本のトンネルだった。その先で線路が二つに分かれており、壁には剥げかけた白い塗料とロシア語の標識があった。
ダニヤルが一つずつ読む。
「第一保管区」
「通信室」
「発電区画」
奥へ進むと、巨大な空間が現れた。貨車をそのまま収容できる地下ホームだった。線路が三本あり、荷役用のクレーンと側壁には何十もの扉があった。発電機室。大型のディーゼル発電機が三基。燃料タンク。給水設備。空気濾過装置。簡易な医務室。食堂。寝台の並ぶ居住区。
ピーターが言った。
「人が住めますね」
「かなり長く」
嘉一は壁を見る。
ここまで来ると、軍人だった自分と、考古学を学んだ自分の両方が働き始めていた。
防爆扉。独立電源。濾過された空気。鉄道による大量輸送。しかも建設は1962年。
「核シェルター?」
ダニヤルが訊いた。
「その性格はあると思う」
嘉一は答えた。
「でも民間防空壕にしては鉄道設備が大きすぎる」
さらに奥。一室だけ造りが違った。壁一面に、巨大な地図が残っていた。
カザフ・ソビエト社会主義共和国。その北にはロシア。西にはウラル。
線が何本も引かれている。鉄道だった。
カラガンダ。ツェリノグラード。パヴロダル。さらに北。
ダニヤルが埃を払った。
文字が現れる。
ピーターには読めない。
嘉一も全部は読めなかった。
「何て書いてある?」
ダニヤルがゆっくり読んだ。
そして止まった。
「国家予備……」
「何の?」
「国家物資備蓄の、鉄道受入施設」
嘉一が地図を見る。
そこでようやく、全部がつながった。
これは秘密兵器の基地ではなかった。ミサイルもない。核弾頭もない。もっと地味で、だからこそ巨大だった。戦争や災害などの非常事態に備えて、燃料、機械部品、通信設備、医療物資などを鉄道で運び込み、地下に備蓄する施設。それはソ連という巨大国家を、非常時にも動かし続けるための倉庫だった。
ピーターが訊いた。
「なぜこんなところに?」
嘉一は地図を見た。
「鉄道だと思います」
指を置く。
「カラガンダはソ連のほぼ中央部にある。鉄道で各地につながってる。しかも内陸深くで、国境から遠い」
ダニヤルが続けた。
「石炭もあります」
「そう。電力もある。鉱工業都市もある」
嘉一は周囲を見た。
「隠すには都合がいい」
1962年。
冷戦が最も危険な時期の一つだった。米ソが核戦争を現実のものとして考えていた時代。国家は軍隊だけを生き残らせればいいわけではない。
鉄道。通信。電力。工業。医療。行政。
それらを再び動かすための物資も必要になる。この施設は、そのための一つだった。
ピーターが言った。
「それが、どうして鉱山の敷地に?」
嘉一が笑った。
「逆でしょう」
「逆?」
「鉱山の方が後から来たんです」
嘉一は1962年のプレートを指した。
「ここが先だ」
鉱山の開山は1971年。
9年後。
「たぶん、この支線が先に造られた。その後、近くでモリブデン鉱山の開発が始まった」
「線路を共用した?」
「途中までは、そうかもしれない」
ダニヤルが地図を見た。
「だから古い図面には……」
嘉一が頷いた。
「軍用部分だけ載せなかった」
ソ連では珍しい話ではない。存在している道路が地図にない。町そのものが地図から消える。軍事施設への鉄道が別の用途として記載される。地図は土地を写すものではなく、国家が見せていい土地を描くものでもあった。
ソ連崩壊後、軍は撤収した。物資も運び出された。施設は閉鎖された。鉱山も衰退した。やがて、この支線を知る人間そのものが少なくなった。レールだけが残された。

帰り道、三人は線路沿いを歩き、すでに陽が暮れようとしていた。
ダニヤルが訊いた。
「どうするんですか、ここ」
嘉一は少し考えた。
「まず記録する」
「その後は?」
「カザフ政府に報告する」
ピーターが言った。
「埋め戻してしまう可能性もありますね」
「それは彼らが決めることです」
嘉一はレールを見た。
「俺たちは土地を買っただけだから」
しばらく歩く。
やがて鉱山の選鉱場が見えてきた。
一九七一年に造られた鉱山。
その地下へ向かうように、
一九六二年の線路が延びている。
嘉一が立ち止まった。
「面白いな」
ピーターはもう理由を訊かなかった。
ダニヤルが訊いた。
「何がです?」
「俺たちはモリブデン鉱山を買いに来た」
「はい」
「ずっと鉱山の鉄道だと思ってた」
嘉一は足元のレールを軽く蹴った。
「でも違った」
この線路は、鉱山へ向かうために造られたのではない。鉱山ができるより前から、ここにあった。地図から消され、国家が消え、目的も忘れられた。それでも、軌間だけは残った。
1520ミリ。かつてソ連という巨大な国家を結んでいた幅だった。嘉一は草原の向こうを見た。
「消えたのは線路じゃなかったんだな」
ピーターが訊いた。
「では?」
嘉一は答えた。
「行き先だよ」
風が吹いた。
草の間から、
二本のレールが夕陽を反射した。
それはもう、どの地図にも載っていなかった。