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第五話 琥珀色の谷

第一章 霧の蒸留所

 エディンバラに着いたとき、雨はすでに上がっていたが、街はまだ乾いていなかった。タクシーの窓越しに見える砂岩の建物は、濡れた部分だけ色を深め、軒先から落ちる雫が歩道の水溜まりに細い波紋を作っていた。ロンドンを発った朝には青空が見えていたのに、こちらでは低い雲が屋根と煙突の上に重なり、その隙間から射す光さえ、街の石に吸い込まれるように柔らかかった。

 近見=グレイ・嘉一は、後部座席で書類鞄を膝に置き、坂を上っていく車の先を眺めていた。建物の間から城が現れたのは、運転手が渋滞を避けて道を変えた直後だった。黒ずんだ岩の上に石造りの城壁が立ち、その下に家々が折り重なっている。城を飾るために街が造られたのではなく、人々が身を寄せられる場所を選び、限られた土地を何世代にもわたって使い続けた結果として、街がここまで育ったように見えた。

「初めてですか」

 運転手がバックミラー越しに訊いた。

「何度か来ています。ただ、城を見る時間があったのは学生のころです」

「では、あまり変わっていませんよ。新しい店はいくらでもできましたが、あれを建て替えようという人間はいません」

 嘉一は笑い、もう一度窓の外へ目を向けた。

 今回の出張は、父の会社が進めている酒類輸入事業のためだった。チカミ・グローバル・ホールディングスは、すでに日本で複数の酒類販売会社と取引を持っていたが、嘉一が探していたのは、大手の流通網に乗った有名銘柄ではなかった。生産量は小さくても、品質と来歴が確かで、日本で長く育てられる蒸留所との直接取引である。

 候補の一つが、西部ハイランドにあるグレン・ブレア蒸留所だった。19世紀に創業し、何度か操業を止めながらも、マクレーン家が経営を続けている。英国の取引先から送られてきた試飲用のボトルには、目立つ装飾も立派な箱もなく、銘柄名と熟成年数を記した簡素なラベルが貼られていた。しかし、グラスに注いだ酒には、熟した林檎を思わせる香りの奥に穏やかな麦の甘さがあり、その後から細い煙の気配が現れた。

 それは、強さを競うような酒ではなかった。嘉一は少量の水を加え、香りがほどけていくのを待ちながら、この蒸留所には一度行ってみる必要があると考えた。

 翌朝、迎えとの約束までに時間があったため、嘉一はホテルに荷物を預け、城へ向かった。ロイヤル・マイルを上ると、足元の石が昨夜の雨をまだ残していた。通りに面した店では、タータンのマフラーや銀の装身具が並び、開店の準備をする男が看板を外へ運び出している。表通りの賑わいから横へ目を向けると、建物の間に、人が肩を寄せればすれ違えるほどの細い路地が口を開けていた。クローズと呼ばれる路地は、急な階段を伴って斜面へ下り、通りからは見えない中庭や、別の生活の気配へつながっている。

 旧市街では、街路を広げるより建物を上へ伸ばす方が容易だった。城から延びる尾根という土地の形が、暮らしの形まで決めていたのである。高い建物に異なる身分の人々が住み、狭い通路を共有し、雨水や煙や人間の臭いの中で都市が膨らんでいったことを思うと、いま観光客が美しいと感じている景観にも、当時の住民には美しさだけでは済まされない事情があったはずだった。

 城の入口へ向かう途中で振り返ると、その窮屈さとは対照的に、北側には整然とした新市街が広がっていた。直線的な街路と均整の取れた建物は、都市を秩序立てて設計できるという18世紀の自信を表しているようだった。古い街を壊して置き換えるのではなく、谷を隔てた場所に別の都市の考え方を築いたため、エディンバラでは異なる時代の価値観を一度に眺めることができた。

 嘉一は城内へ入り、城壁の上から岩の斜面を見下ろした。エディンバラ城が立つキャッスル・ロックは、古い火山活動によって生まれた岩山で、三方を急な崖に囲まれている。東側の尾根だけが比較的緩やかに街へつながっており、そこを押さえれば接近する敵を限られた方向へ導くことができた。城の美しさに先立って、この地形を選んだ人間の実際的な判断があった。

 しかし、守りに適した場所であることと、一度も奪われないことは別だった。スコットランドの王権を支えたこの城は、イングランドとの独立戦争で繰り返し争奪の対象となり、1296年にはエドワード1世の軍に占領された。1314年、ロバート・ブルースの甥トマス・ランドルフが夜襲によって奪い返したときも、兵が正面の門を破ったわけではなかった。険しい岩の斜面を登り、守備側が接近を予想しにくい場所から城へ入ったのである。

 嘉一は眼下の岩肌をもう一度見た。雨に濡れた岩を、暗闇の中で武器を携えて登ることを思えば、城を取り戻したという一行の記述にも、指先の冷えや足場を失う恐怖があったはずだった。崖は防御に役立つが、守る側の目と注意まで保証してくれるものではない。

 奪還後、ブルースは、再び敵に利用されることを防ぐために城の防御施設を壊させた。取り戻した城を自ら壊す判断は、王権の威容より戦争の現実を優先したものだった。その際にも残されたと伝わるのが、城内の小さな聖マーガレット礼拝堂である。ダヴィッド1世が母を記念して建てたこの建物は、厚い石壁と簡素な入口を持ち、周囲の王宮や砲台に比べれば、ほとんど控えめに見えた。嘉一はその前で足を止め、軍事上の都合だけでは処分されなかった建物の小ささを眺めた。

 城はその後も再建され、王の住まいであると同時に、王位を巡る争いの拠点となった。1566年には、スコットランド女王メアリーがここで息子ジェームズを産んでいる。しかし、王子の誕生から数年後には、母を支持する勢力と息子を王として担ぐ勢力が対立し、城は再び包囲された。1571年から1573年にかけての長期包囲戦の末、激しい砲撃によってダヴィッドの塔が崩れ、その跡には後にハーフ・ムーン・バッテリーが築かれた。高い塔で城の力を示す時代から、砲撃に耐え、砲で応じる時代への変化が、建物の形にも刻まれていた。

 ここで生まれたジェームズ6世は、1603年にイングランド王ジェームズ1世にもなった。同じ国王が両国を治めることになったが、それによって直ちに二つの国が一つになったわけではない。王の宮廷がロンドンへ移ると、エディンバラ城は君主の日常の住まいとしての役割を薄め、軍事拠点としての性格を強めていった。城の歴史を辿れば、独立を守ろうとする戦争も、王家同士の血縁も、国内の宗教と政治の争いも、同じ石壁の中へ入り込んでくる。

 嘉一は礼拝堂を離れ、石畳の道をゆっくり歩いた。

 城とは、一度完成すればそのまま残るものではない。王が住み、兵が守り、敵の砲撃を受け、その都度必要な形へ造り直される。16世紀の長期包囲戦ではダヴィッドの塔が崩れ、その跡を利用して新たな防御施設が築かれた。目の前の城壁を一つの時代の建造物として眺めるより、修理と破壊と増築が重なった場所として読む方が、嘉一には自然だった。

 考古学を学んでいたころ、土の色が変わる境目や、石積みのわずかな違いに意味があると教えられた。記録が勝者の言葉を残す一方で、建物は、そこにいた人間が何を必要としたかを残す。窓を塞いだ跡にも、階段の向きを変えた跡にも、説明されなかった生活があった。

 城を出たとき、待ち合わせ場所の近くに濃い緑色の車が停まっていた。その横で、女性が革の手袋を外しながら嘉一を見ている。背は女性としては高い方だろう。膝丈のツイードのコートを開け、その下にアイボリーの薄手のニットと、深い緑色のウールのスカートを合わせていた。ニットは細い腰へ自然に沿い、控えめな胸元の丸みと、すらりとした身体の線を伝えている。スカートの裾からは濃い色のタイツに包まれた脚が伸び、足元には踵の低い茶色の革のショートブーツを履いていた。嘉一に気づいて車から一歩離れると、裾が小さく揺れた。立ち姿に気取ったところはなく、踵の低い革靴も、街を飾って歩くためというより、濡れた石畳を歩き、そのまま工場の床へ入るためのものに見えた。

 赤褐色の長い髪は肩の先まで届き、襟元に巻いた薄いマフラーの上へゆるやかに流れていた。毛先には自然なうねりがあり、風が吹くと頬にかかったひと房を指で耳の後ろへ払った。色白の顔には鼻筋を中心に淡いそばかすがあり、はっきりした頬骨と通った鼻筋が端正な印象を与えている。灰緑色の目は嘉一をまっすぐに見ていたが、笑みが浮かぶと目元も和らぎ、落ち着いた顔立ちに親しみやすさが加わった。

「チカミさんですか」

 英語の発音には、嘉一がロンドンで聞き慣れたものとは異なる、柔らかな抑揚があった。

「嘉一で結構です。あなたがフィオナ?」

「フィオナ・マクレーンです。父がお迎えに来る予定でしたが、急に銀行との打ち合わせが入りまして」

 差し出された手を握ると、細い指には思ったより力があった。右手の爪の脇には小さな傷があり、嘉一の視線に気づいたフィオナは、少しだけその指を曲げた。

「今朝、樽の栓を扱っていて。こういうことは、よくあります」

 彼女は手袋をコートのポケットにしまい、嘉一の手元に残った城の入場券を見た。

「お仕事の前に、お城ですか」

「仕事の相手を知るには、その人が住んでいる国を少し知っておいた方がいいでしょう」

「父は喜ぶと思います。ただし、お城の話を始めると長くなりますよ」

「蒸留所の話と、どちらが長いですか」

 フィオナは考えるような顔をしてから、車の扉を開けた。

「祖父の代の話が混ざると、区別がつかなくなります」

 車が市街地を離れると、街の石の色に代わって、畑と林の色が窓を満たした。フィオナはエディンバラで化学を学び、卒業後は食品関係の研究施設に勤めていたという。蒸留所へ戻ったのは、母の具合が悪くなったためだった。

「戻るつもりはなかった?」

「いずれは、と思っていました。でも、いずれという言葉は便利ですね。何も決めずに済みますから」

 運転する彼女の横顔を見ながら、嘉一は、その言葉には自分で思い当たるところもあると感じた。軍を離れた後、学問に戻ることも、父の会社に入ることも、しばらくは決めないままでいられるように思っていた。しかし、選ばずにいる時間もまた、何かを選んでいる時間だった。

 やがて道は、家々と耕された畑の間を抜け、低い山に囲まれた開けた土地へ出た。窓の外には、赤茶けたシダと、花の季節を過ぎたヒースが斜面を覆っている。樹木の少ない場所では風の通り道がよく見えた。草が一斉に伏せ、少し離れた場所が遅れて揺れ、その動きが山裾へ長く続いていく。雲の影もまた地面を渡り、褐色に見えていた斜面を暗くしたかと思うと、次の瞬間には細い陽光が岩の白い面だけを浮かび上がらせた。

 フィオナが換気のために窓を少し下げると、冷たい風が車内へ入り、湿った土と草の匂いがした。嘉一は窓の外を見たまま、その空気を吸った。地図の上では道路を境に区切られた場所も、ここから眺めれば、岩と水と低い草が続く一つの大地だった。人が境界を決めるより先に、水は低い場所へ集まり、風は谷を選んで通っていた。こういう土地で暮らした人々にとって、山や泉に名を与えることは、抽象的な風景を飾る行為ではなかったのだろう。霧の中で帰る方向を確かめ、冬を越せる場所を知り、毎日汲む水のありかを覚えることだった。古い言葉が地名に残る理由を、嘉一は書物より先に、窓から入り込む風の中で理解するような気がした。

 道が西へ向かい、地形が次第に起伏を増すにつれて、話題は土地の名前へ移った。フィオナは道路標識を見ながら、いくつかの地名に残るゲール語の意味を教えた。グレンは谷を表し、湖や丘や小川の名前にも、英語とは別の言葉で土地を見ていた人々の記憶が残っている。

「日本の人に、ケルトの文化について訊かれることがあります。でも、説明するのは難しいんです。模様と音楽と古い伝説を、全部一つの箱に入れてしまうと、きれいには見えますけれど」

「誰が、いつ、どこで暮らしていたかが分からなくなる」

「そうです。スコットランド人が全員ゲール語を話していたわけでもありませんし、今も、全員が話せるわけではありません。私も祖母ほどには話せません」

 嘉一は頷いた。ケルトという言葉は便利だが、その便利さのために、言語も時代も異なる人々を一つの民族のように扱ってしまうことがある。スコットランドの成り立ちには、ゲール語を話す人々だけでなく、ピクト人、ブリトン系の人々、アングル人、さらに海を渡ってきた北欧の人々も関わっていた。そこへ教会や王権、交易や戦争が重なり、いまの国が形づくられている。

「祖母は歌で覚えていました」とフィオナが続けた。「誰から習ったのか分からない歌もあって、歌詞を尋ねると、昔からこう歌うのよ、としか言わないんです」

「書かれた記録より、歌の方が長く残ることもありますから」

「あなた、考古学を勉強していたんですね」

「途中までです」

「途中までにしては、古いものを見るのがお好きなようです」

「古いものは、こちらが急いでも答えてくれませんからね」

 フィオナは少し笑ったが、その後しばらく、車内にはタイヤが路面を踏む音だけが続いた。

 山は、日本で見慣れたように、輪郭のすべてを木々で覆ってはいなかった。草の間から灰色の岩が露出し、斜面の途中には水の集まる黒い窪みがある。細い流れが何本も山肌を下り、道の下をくぐって、谷底の川へ合わさっていた。雨に煙る遠景を見ていると、山の大きさよりも、そこから絶えず水が生まれていることの方が強く感じられた。

 石垣の向こうには、屋根を失った小さな建物が残っていた。草に半ば埋もれた壁の内側を、羊が歩いている。誰が住み、いつ去ったのかは分からないが、かつてはこの壁の向こうにも火があり、雨の夜に戸を閉める手があったはずだった。古い物語に出てくる遠い時代も、そこにいた人間にとっては、濡れた衣服を乾かし、食べ物を分け、翌朝の天候を気にする日々だったのだろう。車が曲がると、その建物は見えなくなった。代わりに谷の奥から白い壁が現れ、フィオナが、あれが蒸留所ですと言った。

 町を離れると、道の両側にまた湿った草地が広がった。フィオナは送風を弱め、窓を少し開けた。冷たい空気が入り、肩に落ちていた髪の先を揺らした。助手席には誰もおらず、駅へ向かうときに続けていた仕事の話も、いまは車の音に代わっている。斜面の上では、風に押された霧がゆっくり動いていた。その下から岩が現れ、しばらくすると、向こうの林まで見えるようになった。彼女が子供のころから何度も通った道だったが、今朝は、曲がるたびに新しいものが見えてくるように感じられた。

 祖母から教わった歌の節を、小さく口ずさんだ。途中で忘れている言葉があり、そこだけ声を止めたが、旋律は続けることができた。誰かが土地を離れ、別の誰かが残って、その歌を覚えている。彼女は今まで、それを昔の人々の話として聞いていた。風に揺れる草を見ながら、フィオナは窓を閉めた。蒸留所へ戻れば、瓶詰めの担当者が待っている。車の速度を落とし、見慣れた谷への曲がり角へ入った。

 谷へ入るころには、雨がまた降り始めていた。山の斜面には雲が低く垂れ、濃い針葉樹の林の間から、葉を黄ばませた白樺が見えた。石垣に囲まれた牧草地では羊が頭を下げ、遠くの家の煙突から上がった煙が、風に押されて横へ流れていた。

 蒸留所は、小川の曲がる場所に建っていた。白く塗られた壁の一部は雨で灰色に見え、屋根の上には、乾燥棟に由来する小さな塔が突き出している。観光用に整えられた施設というより、長く使ってきた工場に必要な修理を重ねた姿だった。敷地の奥には低い貯蔵庫が並び、その扉の前で作業着の男が樽を転がしていた。車を降りると、湿った空気の中に、穀物を煮たような温かな匂いが混ざっていた。フィオナはそれを確かめるように鼻から息を吸い、嘉一を入口へ案内した。

 父のアラスター・マクレーンは、事務所ではなく仕込み棟から現れた。60歳ほどで、白髪の交じった眉が太く、上着の袖口には水が染みていた。銀行との打ち合わせを済ませた後、着替えて現場へ戻ったらしい。

「ようこそ。まずお茶にしますか、それとも中をご覧になりますか」

「差し支えなければ、先に中を」

「それなら、いいお客様です。帳簿だけ見て帰る人もいますので」

 アラスターは笑ったが、フィオナは笑わなかった。

 仕込み棟では、砕いた麦芽に温水を加え、糖を溶かし出していた。麦芽は、単に乾かした大麦ではない。水を吸わせて発芽を始めさせることで、穀粒に蓄えられた澱粉を利用するための酵素が働く状態にし、その発芽を乾燥によって止めたものだった。フィオナは、原料の麦芽は外部の製麦業者から仕入れていると説明した。

「屋根の塔をご覧になりましたか。昔はここで麦芽を乾かしていました。今は使っていませんが、建物は残しています」

 嘉一が泥炭のことを訊くと、彼女は、泥炭を燃やした煙に麦芽をさらすことで独特の香りがつくが、すべてのスコッチが強い煙の香りを持つわけではないと答えた。この蒸留所でも、煙が他の香りを覆わない程度に抑えているという。

 隣の部屋には、発酵槽が並んでいた。糖を含んだ液に酵母を加えると、酵母が糖を利用し、アルコールと炭酸ガスを生み出す。その途中で生まれる香味成分も、後の酒の性格に関わっていた。嘉一が槽の上から覗くと、液面には泡が浮き、工場に入ったときより酸味のある匂いがした。

「ここまでで、もうウイスキーなのですか」

「まだです。むしろ、ホップを入れていないビールに近いと思っていただいた方が」

 フィオナはそう言い、蒸留棟の扉を開いた。

 そこには、丸みを持った銅製の単式蒸留器が2基並んでいた。肩から上へ伸びた首は途中で曲がり、蒸気を冷やす設備へつながっている。銅の表面は場所によって色が異なり、磨かれた部分だけが照明を明るく返していた。

 蒸留とは、ただアルコールを強くする作業ではなかった。液を熱して蒸気にし、冷やして再び液へ戻す過程で、どの成分をどれだけ次へ送るかが変わる。蒸留器の形や加熱の仕方、銅との接触、そして流れ出る液のどこを製品へ回すかによって、同じ原料からでも違う酒になる。フィオナの説明を聞きながら、嘉一は、試飲した酒の香りがこの建物と無関係ではないことを理解していった。アラスターが蒸留器の根元へ手を向けた。

「古い方を交換したときは、形を変えないように造ってもらいました。能率のいい形はあったのでしょうが、別の酒になってしまっては困る」

「古いから残すのではなく、必要だから残すわけですね」

「そう言っていただけると、頑固なだけではない気がします」

 貯蔵庫の扉を開けると、空気が変わった。石の壁に囲まれた室内は冷たく、土の床から湿り気が上がり、木と酒の匂いが鼻の奥に残った。樽は横向きに積まれ、鏡板には年と番号が記されている。蒸留したばかりの無色の酒が、この中で木から色と香りを受け取り、ゆっくりと性質を変えていく。

「時間が一番高い材料です」とアラスターは言った。「麦芽も燃料も買えますが、12年前の冬を、今から注文することはできません」

 嘉一は樽の列を見渡した。そこには、過去の売上ではなく、まだ売上になっていない過去が保管されていた。仕込みの費用はすでに払われ、働いた人間にも給料が渡されているのに、代金を受け取るのは何年も後になる。良い酒を造る能力と、その年月を持ちこたえる能力は、別のものだった。

 その日の夕食は、敷地に隣接したマクレーン家の古い家で出された。厚い壁の食堂には暖炉があり、窓辺に置かれた銀の額には、今より若いアラスターと、彼によく似た笑い方をする女性が写っていた。フィオナは席につく前に、額を少しだけ動かして、食卓から見える向きに直した。

 もう1人の客が来たのは、料理が運ばれる直前だった。マクレーン家の財務責任者、ダグラス・リードという男で、蒸留所には30年近く勤めているという。アラスターが彼を紹介するときの口調には、従業員を紹介するというより、身内を席へ迎えるような親しさがあった。リードは嘉一の会社についてよく調べていた。海運と貿易の事業に触れ、日本での販売提携にも関心を示したが、原酒の話になると、会話を市場の厳しさへ戻した。

「良い製品であることと、売れることは違います。独立蒸留所には、大手のような宣伝費も流通網もありませんから」

「それは承知しています。ですから、販売先を絞って始めたいと思っています」

「始めるまでにも時間がかかります。その時間を買うのが、今は難しいのです」

 リードが言葉を切ると、アラスターは手元のグラスを見た。

「実は、売却の話が来ています」

 暖炉の薪が崩れ、小さな火の粉が上がった。フィオナは皿へ目を落としたまま、ナイフを置いた。買い手は海外の投資ファンドだという。蒸留所の設備と銘柄、貯蔵している原酒をまとめて引き受け、必要な資金も入れる。リードが紹介し、交渉を進めてきた相手だった。

「従業員の雇用も、できるだけ維持するという話です」とリードが付け加えた。「アラスターには、これ以上、ご自身の財産を注ぎ込んでいただくわけにはいきません」

 フィオナが顔を上げた。

「できるだけ、というのは、何人ですか」

「まだ条件を詰めている」

「何を造り続けるかも、まだ決まっていませんよね」

「フィオナ」と父が言った。その声は強くなかったが、彼女はそれ以上続けず、椅子の背へ身体を戻した。

 嘉一はそのやり取りを見ながら、昼間の工場を思い返していた。確かに設備は古く、資金が必要なのだろう。しかし、売る価値がない蒸留所ではなかった。樽の中には熟成した原酒があり、製造現場には、自分たちが何を造っているかを説明できる人間がいる。それでも、食卓では、続ける方法ではなく、終える方法ばかりが語られていた。

「日本向けの輸出は、これまで検討されましたか」

 リードはすぐに答えた。

「何度か。ただ、採算が合いませんでした」

「どの販売会社と?」

「資料は事務所にあります。明日、ご覧になっていただければ」

 嘉一は頷き、そこで質問を止めた。初めて来た家の食卓で、長年仕えている男を尋問するつもりはなかったし、説明が簡潔すぎるからといって、それだけで何かを疑うべきでもない。

 夕食の後、リードが帰り、アラスターが電話のために部屋を離れると、フィオナは暖炉のそばへグラスを運んだ。嘉一にも同じ酒を注ぎ、少しの水を添えた。

「父は、私のためだと言うんです」

 嘉一が隣の椅子に座ると、彼女はグラスの中を見ながら続けた。

「母が亡くなってから、私をここに縛りつけていると思うようになりました。売れば、私はエディンバラへ戻れる。別の仕事ができる。そう考えているんです」

「あなたは戻りたいのですか」

「戻りたい日もあります。街には友達もいますし、ここにはないものもたくさんありますから。でも、それと、ここをなくしたいかどうかは、別でしょう」

 彼女はそこで嘉一を見た。

「まだ、できることがあると思います。何をすればいいのか、私には分からないだけで」

 嘉一はグラスを傾け、香りを確かめた。昼間に見た蒸留器の銅色と、冷たい貯蔵庫の空気が、以前ロンドンで試飲したときにはなかった具体性を酒へ与えていた。彼はしばらく考えてから、グラスを机へ置いた。

「明日は、製造の記録も見せてください。販売の資料と、一緒に」

「父に頼みます」

「まだ、お役に立てるかどうかは分かりません」

「分かっています」

 そう答えたとき、フィオナの肩から、わずかに力が抜けた。

 窓の外では雨が弱まり、庭の向こうに蒸留所の白い壁が見えていた。貯蔵庫には灯りがなく、昼間に目を慣らしながら歩いた樽の列は、いま完全な暗闇の中にあるはずだった。その中でも酒は変わり続けている。食卓でどんな契約が語られようと、樽の中の時間まで止めることはできなかった。

 嘉一は書類鞄から手帳を出し、明日確認する項目を書き始めた。

※歴史描写では、エディンバラ旧市街と新市街の対照、聖マーガレット礼拝堂、1573年の包囲戦によるダヴィッドの塔の破壊を踏まえています。蒸留所と登場人物は架空です。

第二章 番頭の帳簿

 翌朝、嘉一がマクレーン家の客室の窓を開けると、谷の底にはまだ薄い霧が残っていた。夜の雨を含んだ芝生は深い緑色を帯び、敷地を流れる小川からは、前日より大きな水音が聞こえてくる。遠くの斜面では羊が白い点となって散らばり、林の向こうに見える山頂だけが、雲の切れ目から朝の光を受けていた。

 朝食の席にフィオナの姿はなかった。アラスターによれば、すでに貯蔵庫へ行っているという。彼女が蒸留所へ戻ってから、原酒の採取や検査は、できるだけ製造現場が忙しくなる前に済ませるようになった。温かな粥の器を嘉一の前へ置きながら、アラスターはその習慣を説明したが、娘の仕事を誇る口調の奥には、別の人生を選べたはずだという思いも残っているようだった。

「昨夜の話は、リードに伝えておきました。資料を見てもらって構わないと」

「ありがとうございます。まずは酒の方を、もう少し知っておきたいと思っています」

「それなら、フィオナに任せてください。樽の番号は、私よりよく覚えています」

 嘉一は食事を終え、上着を取って外へ出た。 家の軒を離れた途端、谷を抜ける風が上着の前を押した。嘉一は襟元へ手をやり、昨日まで霧に隠れていた斜面を見上げた。山頂の近くでは雲がちぎれ、露出した岩の間に光が射している。明るくなった場所は長く留まらず、次の雲が来ると、山はまた湿った暗い色へ戻った。

 足元の草には雨の雫が残り、歩くたびに靴の先が濡れた。風が止むと小川の音が近くなり、再び吹けば、葉の擦れる音がその上へ重なる。工場の扉が開く音も、誰かが作業場で道具を置く音も、その広い響きの中へ入っていった。

 嘉一は、蒸留所が風景の中に建っているというより、この土地の水と寒さを使いながら働いているのだと感じた。樽の中で酒を待たせる年月にも、毎年の雨や、冬の冷えや、夏の短い暖かさが入り込む。昨夜のグラスにあった香りを思い出すと、それが工場の中だけで造られたものには思えなくなった。砂利道には浅い水溜まりが残り、作業場の裏からは、木を叩く音が一定の間隔で聞こえていた。昨日は意識しなかった音だったが、蒸留所の朝は、機械が動く音だけでできているわけではなかった。

 貯蔵庫の扉は開いていた。フィオナはコートの上から作業用のエプロンを掛け、棚の一段目に積まれた樽の前で手帳を開いている。肩を少し越える赤褐色の髪は、今朝は邪魔にならないよう後ろでまとめられていた。嘉一に気づくと、彼女は手帳を閉じ、白い息を吐きながら笑った。

「寒いでしょう。中は、もっと寒いですよ」

「それでも、ここで働く人には都合がいいのですか」

「人間には、あまり。ただ、酒には急に暖かくなったり冷たくなったりしない方がいいので」

 庫内は低い屋根と厚い石壁に囲まれ、土の床には湿り気があった。樽は横向きに積まれているが、巨大な倉庫のように高くはない。フィオナは通路を進みながら、ここでは昔ながらの低層の貯蔵庫を使い続けていると説明した。外気の変化が壁や土によって緩やかになり、樽の置かれた場所によっても、長い年月の間には違いが生まれるという。

「昨日、お見せしたのは、瓶にして売っている酒でした。今日は、その前の状態を比べていただこうと思います」

 彼女が最初に示したのは、1984年に詰めた樽だった。鏡板の番号を読み上げ、手帳の記録と照らし合わせる。続いて別の年の樽へ移り、木の種類と、以前に何を入れていた樽なのかを説明した。同じ蒸留所で造った原酒でも、バーボンを熟成させた樽と、シェリー酒に使われた樽では、その後の育ち方が異なる。

 嘉一は、樽の番号が並ぶ手帳を見た。樽に詰めたときの量と度数に加え、何度か採取した際の測定値が記されている。

「量は、毎回測り直すんですね」

「ずっと同じ量が残っているわけではありませんから。度数も変わります。減り方がいつもより大きければ、樽そのものを調べなければいけません」

 木を通じて失われる酒を、人々は天使の分け前と呼ぶ。詩的な呼び名ではあったが、経営者にとっては、年月とともに減っていく在庫だった。麦芽や燃料の代金は仕込みの時点で払い、人件費も毎月支払わなければならない。その間、売るための酒は樽の中で待ち続け、しかも少しずつ量を失っていく。嘉一は前夜に見た父娘の顔を思い浮かべながら、貯蔵庫に残された時間を、資金の側からも考え始めていた。

 採取した酒を運んだ品質管理室には、小さなグラスが5つ並べられた。フィオナはそれぞれの前に番号を書いた紙を置き、最後に水差しと、口に含んだ酒を吐き出すための器を用意した。

「朝から酔わせるつもりはありません」

「それは助かります。今日は帳簿も読む予定ですから」

 最初のグラスには、樽へ入れる前の無色の原酒が注がれていた。鼻を近づけると、アルコールの鋭さの下に、穀物と果実の匂いがある。口に含んだ印象は、昨夜飲んだ酒とはずいぶん違っていた。

「これが、あの酒になるわけですか」

「全部を樽に任せるわけではありません。ここにない性格を、後から何でも作れるわけではないので。蒸留の段階で、どういう酒にするかは決まっています」

 2つ目は、比較的若い原酒だった。木の甘い香りは加わっているものの、口の中ではまだ別々の要素が並んでいるように感じられた。フィオナは、悪い酒という意味ではなく、いまの段階ではもう少し待ちたいのだと説明した。

 3つ目の1984年の酒は、バーボンを熟成させた後の樽で育っていた。淡い金色で、嘉一が期待したほど濃くはない。しかし香りには、林檎のような果実味と、柔らかなバニラの気配があり、水を少し加えると麦の甘さが広がった。

 続くシェリー樽の酒は色が深く、干した果実や胡桃を思わせる香りがあった。口に含むと、先ほどの酒より重みがあるが、ただ濃いというだけでは説明できない違いがあった。

「色だけで選んでいたら、こちらの方が高い酒だと思ったかもしれません」

「濃い色が好きな方もいらっしゃいます。でも、それで優劣が決まるわけではありません。樽が何を含んでいたか、何回使われたかでも違いますから」

 最後の酒は、最も長い年月を樽の中で過ごしていた。嘉一は慎重に香りを確かめたが、口に含むと、木の渋さが他の要素より先に現れた。フィオナは彼がグラスを置くのを待ち、父も同じ印象を持っていると話した。

「もっと早く樽を替えるか、瓶にするか、判断すべきだったかもしれません。古くなれば、必ず良くなるわけではないんです」

 その言い方には、自分たちの酒をよく見せるための遠慮がなかった。嘉一は、良い樽だけを並べて褒め言葉を待つ案内より、彼女の仕事を信じられる気がした。

「1984年の樽を、そのまま売ることはできるんですね」

「できます。一本の樽から瓶詰めするなら、シングルカスクとして」

「シングルモルトとは、別の話ですね」

「ええ。シングルモルトの『シングル』は、一つの蒸留所という意味です。同じ蒸留所の酒なら、複数の樽を合わせてもシングルモルトです。普段の商品は、そうして味を作っています」

 嘉一は、並んだグラスをもう一度見た。一本だけ際立って良い樽を見つければ、それを限られた本数で売ることはできる。しかし、その樽がなくなれば、同じ商品は続けられない。継続的に取り扱う銘柄を作るには、毎回まったく同じ酒が樽から出てこないことを前提に、蒸留所らしい味へ整える技術が必要だった。

「毎年、同じ銘柄として出せる味は、どうやって作るのですか」

 フィオナは棚から小さな瓶を何本か取り出した。

「一つの樽だけで完成している酒ばかりではないので、それぞれの役割を見ます。果実の香りがきれいなもの、厚みを加えるもの、煙の気配を支えるもの。合わせてみると、単独で飲んだ印象とは違うこともあります」

 彼女は少量ずつを量り、別のグラスへ移した。嘉一は比率を手帳に書き留め、その香りを確かめた。片方の良さを強くすれば、もう片方の良さも強くなるという単純な話ではない。フィオナは一度作った配合を少し変え、再び嘉一の前へ置いた。

 昨夜の食卓では父の決断に押し戻されていた女性が、いまは迷いなく自分の判断を説明している。嘉一の質問に答えるたびに、彼女の声は落ち着き、手元の動きにも無駄がなくなった。彼女がこの蒸留所へ戻ってきた理由は家族の事情だったが、ここに残る理由は、それだけではないのだろう。

 試飲を終えて作業場の前を通ると、朝に聞いた木を叩く音がまた響いていた。扉の中では、白髪の男が樽の胴を調べ、金属の輪を道具で少しずつ動かしている。フィオナが声をかけると、男は顔を上げ、厚い眼鏡の奥から嘉一を見た。

「日本から来たお客さんか」

「父が話しました?」

「昨日から、何人にも聞かれたよ。何を買う人なんだ、と」

 男はユアン・マクラウドと名乗った。樽職人として周辺の蒸留所から修理を請け負い、グレン・ブレアにも長く出入りしているという。フィオナが子供のころには、ここで常勤していた時期もあった。

 ユアンは外した樽板を持ち上げ、木の端を指で示した。樽はただの容器ではなく、中身を育てながら、何年も漏らさずに保たなければならない。板の継ぎ目、木の傷、締めた輪の位置を確かめる手つきには、力だけではできない細かな判断があった。

「新しい樽を買った方が早いこともある」と彼は言った。「だが、残せるものまで捨てる必要はない。ここは昔から、そういう金の使い方をする」

 嘉一が売却の話に触れると、ユアンは道具を台へ置いた。

「アラスターも、好きで売るわけじゃないだろう。前にも危ない時期はあったが、今度は年齢も違う」

「前というのは?」

「フィオナが、まだ学校へ通っていたころだ。取引先が一つなくなって、給料の金が足りなくなった。俺にも、来月まで待てと言うんじゃないかと思っていた」

 ユアンはフィオナを見たが、彼女はその話を詳しく知らないようだった。

「リードが銀行へ通っていた。最初は断られたらしいが、何度も出かけて、別の担保も揃えて、ついには金をつけてきた。少なくとも、俺たちの給料は遅れなかった」

 嘉一は前夜のリードの態度を思い返した。食卓での親しさは、30年という勤務年数だけから生まれたものではなかった。アラスターにも、ここで働く人々にも、実際に助けられた記憶がある。

「皆さんが、頼りにしているわけですね」

「金のことなら、あの男に聞けばいいと思ってきた。アラスターは酒のことばかり考えているから、その分、誰かが銀行と喧嘩をしなくちゃならん」

 ユアンはそこで、床に置いた樽をわずかに回した。

「ただ、最近はこっちへ来なくなったな。以前は、この樽の修理にいくらかかるとか、あと何年使えるとか、細かく聞いたものだが。今は、金曜日までに片づくか、としか言わん」

「金曜日?」

「客が来るんだろう。通路を空けておいてくれと言われた」

 嘉一は手帳を開いたが、すぐには何も書かなかった。訪問客のために作業場を整えるのは、どこの会社でもあることだった。しかし、良い原酒があることを確かめ、昔の苦境を知る人間から話を聞いた後では、蒸留所を片づけるという言葉が、午前の光の中で別の重みを持ち始めていた。

 事務所へ上がる階段の壁には、古い免許状の写しが額に収められていた。紙は褐色に変わり、創業者の名前の下に1829年という年がある。隣には、谷の奥に残る小さな石造りの建物の写真が掛かっていた。

「父は、免許を取る前から、家では酒を造っていたと言います」とフィオナが話した。「でも、そのころの記録はありません。祖先の話になると、家族は少し寛大になるでしょう」

「たいていは、祖先本人より大胆な人物に育ちます」

 彼女は笑い、写真を見た。

 スコットランドの蒸留の歴史には、酒税を逃れて谷や山間で酒を造った人々の話が多く残っている。だが嘉一には、煙を隠し、役人を出し抜く物語だけで、この産業を理解することはできないと思えた。1823年の酒税法は、免許を得て蒸留するための条件を整え、酒税を支払う前に原酒を保管できる仕組みも設けた。税を取り立てる制度が変わることは、酒を造る人間が、何年先まで事業を考えられるかにも関わっていた。

 額の中の免許状は、マクレーン家が古くから酒を造っていた証明というだけではなかった。隠れて造る暮らしから、設備と帳簿を持ち、雇った人間に給料を払う事業へ移った、その選択の記録でもある。嘉一は創業者の署名をしばらく眺めてから、会議室へ入った。

 リードはすでに資料を揃えていた。年別の売上、原材料費、人件費、借入金の返済予定、在庫の一覧が、薄い紙の束に分けられている。古い記録を無造作に積んだ事務所とは違い、その机の上には、数字を読む順序まで考えた几帳面さがあった。

「厳しい内容ですが、見ていただいた方が早いと思います」

 嘉一は資金繰り表から読み始めた。売上が費用を上回る年もある一方、借入金の返済と設備の修繕が重なる月には、手元の現金がほとんど残らない。近いうちに必要な修繕の見積書も付いていた。工場を見た印象と、資料に記された必要な支出は、大きく食い違っていなかった。

「アラスターは、仕込みを止めてしのごうと言いました」とリードが説明した。「しかし、それで今年を越えても、何年か後には売る酒が足りなくなります」

「その通りでしょう。再開するための費用もかかる」

 嘉一が頷くと、リードは少しだけ姿勢を緩めた。

「製造の方には、目の前の樽があります。財務には、目の前の返済がある。どちらも本当のことです」

 その説明に異論はなかった。嘉一は、リードが数字を扱う能力まで疑っているわけではない。むしろ、この規模の蒸留所がここまで持ちこたえてきた理由の一部は、彼の仕事にあるのだろう。

 出荷先の一覧を見ると、英国国内の卸売業者が大半を占めていた。長年の取引先ほど単価が低く、支払いまでの期間も長い。大量に買ってくれる相手の条件を受け入れた結果、小さな蒸留所の資金繰りが圧迫される形になっていた。

「日本向けの検討資料もありますか」

 リードは別のファイルを渡した。東京と大阪の業者へ送った案内状の控えがあり、返事のあった相手については、最低発注量を満たさない、希望価格が合わない、といった簡潔な記録が添えられている。

 嘉一は、そのうちの一社の名前で手を止めた。直接の担当者ではないが、チカミ側の酒類取引を通じて知っている会社だった。

「こちらは、扱う気がなかったのですか」

「条件が合いませんでした。小口では、こちらの手間に見合いません」

「試飲用のサンプルは送っていますか」

「まず条件を詰めるべきだと判断しました」

 嘉一は相手の名前と日付を控え、ファイルを閉じた。その場でリードの判断を批判しても、何が起きたのかは分からない。記録にないやり取りがあるかもしれず、相手側の事情も聞かなければならなかった。

 午前の打ち合わせを終え、嘉一はアラスターの了承を得て、事務所の電話から日本へ連絡した。東京では夕方になっていたが、知っている担当者はまだ席にいた。

「グレン・ブレアですか。ありますよ、やり取りした記録が。少し待ってください」

 受話器の向こうで、紙を繰る音がした。嘉一は机上の案内状を眺めながら、電話のコードを指先で避けた。

「ええ。こちらから、まず試飲したいとお願いしています。小さなバーと専門店で扱うことを考えていたので、最初から大きな発注はできないと伝えました」

「その後は?」

「返事がありませんでした。一度、確認のファクスも送りましたが」

 嘉一は、蒸留所の資料では条件が合わずに不成立とされていることを伝えた。

「不成立というほど、話が進んでいません。値段だけでは決められませんから、酒を見せてくださいという段階でした」

 担当者は、当時のファクスの控えを送れると言った。嘉一は礼を述べて電話を置き、もう一社にも確認した。そこでも、同じようにサンプルと条件の再検討を求めた後、蒸留所から返事が来なくなっていた。それだけで売れたはずだとは言えなかった。試飲して評価が合わなければ、結局は注文に至らなかっただろう。しかし「日本では売れなかった」という説明と、「日本で売れるかどうか、最後まで確かめていなかった」という事実には、違いがあった。

 ファクスが動き出したのは、昼食の少し前だった。送り出されてくる紙の端を持ち、嘉一は控えを確かめた。過去の問い合わせには、取引の規模を小さくする代わりに、輸入側で他の商品と合わせて輸送する案も書かれていた。少なくとも、リードが述べた輸送費の問題だけで、話を終える必要はなかった。

 フィオナが昼食へ呼びに来たとき、嘉一はその紙を彼女に見せた。

「この問い合わせを、見たことはありますか」

「ありません。サンプルを用意してほしいと言われたことも」

 彼女は返答のない確認状を読み、唇を結んだ。

「どうして返事をしなかったんでしょう」

「本人に聞きましょう。忙しくて後回しにしたのかもしれません。ただ、その結果を、相手に断られたように説明するのは正確ではない」

 フィオナは紙を机へ戻したが、指先はしばらく端に残っていた。長年頼りにしてきた人間の仕事を確かめることは、初めて会った相手の説明を疑うより難しい。嘉一は、彼女がすぐに怒りを口にしない理由を、ユアンから聞いた話と合わせて考えていた。

 午後、品質管理室へ戻った嘉一は、売却資料に添えられた原酒の評価表を開いた。午前中に試飲した樽の番号が、その中にいくつも載っている。比較的若い酒や、木の渋さが出すぎた酒については、フィオナの説明と大きな違いはなかった。しかし、1984年の樽には、品質にばらつきがあり、単独での瓶詰めに適さないと記されていた。ほかの良好な樽も、似たような言葉で低く評価されている。

「この評価は、いつのものですか」

 フィオナが訊いた。

「6月です。検査の担当は、あなたになっている」

 彼女は棚から黒い表紙の帳面を取り出し、樽番号を指で追った。ページを開いたまま机へ置くと、嘉一の資料の横へ引き寄せた。測定した度数、採取日、香りの所見が手書きで記され、末尾に彼女の署名がある。

「私は、瓶詰めに向かないとは書いていません」

 原本には、果実味と木の香りの調和が良好で、次の瓶詰め候補として再度試飲する、とあった。確定した製品ではないが、売却資料の説明とは逆の方向を向いている。

 フィオナは別の樽の記録も開いた。嘉一は番号の取り違えがないかを確かめ、日付と測定値を一つずつ照らし合わせた。数値の転記には大きな誤りがない。そのため、表の体裁は整い、原本を見ない人間には信用できる資料に見えた。変わっていたのは、数字に添えられた判断だった。

「完成した資料を、あなたは見ていますか」

「今日が初めてです。リードには、父に在庫の状態を説明したいから、記録の写しが必要だと言われました」

「買い手は、試飲していますか」

「何度か。私が同席したのは一度だけです。その後、別のサンプルも送ったと父から聞きました」

 嘉一は資料を閉じず、考えた。買い手が原酒の価値を知らないまま、誤った評価に基づいて買うとは限らない。自分で試飲し、本当の品質を把握している可能性もある。それでも売り手に、保有する在庫は十分な値段で売れないと思わせられれば、交渉は買い手に有利になる。

 貯蔵中の原酒は、製造にかかった費用を基礎に帳簿へ記録されていた。長く熟成し、良い酒になったからといって、その将来の販売価格が、そのまま帳簿に現れるわけではない。嘉一が問題にしているのは、その記録方法ではなかった。売却を判断するための資料で、帳簿上の数字に低い品質評価を重ね、原酒を商品として売る選択肢まで狭めていることだった。

 夕方、アラスターが品質管理室へ来た。フィオナは父を机の前へ呼び、原本と評価表の違いを説明した。最初、彼は眼鏡を掛けて静かに読んでいたが、日本の問い合わせの控えが出てくると、眉の間に皺が寄った。

「リードにも、理由があるだろう」

「理由があれば、私の書いたことを変えていいの?」

「変えたと決まったわけではない。販売には、製造だけでは分からない事情がある」

 フィオナの手が、帳面の端で止まった。

「販売の話をしているんじゃない。私の検査の話をしているの。父さんだって、あの樽を飲んでいるでしょう」

「フィオナ、彼は長くここを支えてきた。何があったのかも聞かずに、悪く言うべきではない」

「私も、ここで働いているわ」

 その返答の後に、しばらく誰も口を開かなかった。窓の外では雨がまた降り始め、敷地の砂利を歩く従業員が、肩をすぼめて門へ向かっていた。

 アラスターが娘を軽んじようとしているわけではないことは、嘉一にも分かった。リードを疑うことは、蒸留所を救ってもらった過去や、長く任せてきた自分の判断を疑うことでもある。娘の説明を受け入れるまでに、彼はその記憶を越えなければならなかった。

 嘉一は机の上の紙を動かし、原酒の評価表だけをアラスターの前へ置いた。

「リードさんが、これまで会社を支えてきたことは聞きました。資金繰りが厳しいことも、資料を見れば分かります。ただ、この記述は確認する必要があります。まず、フィオナさんの検査結果と、違う説明になっている理由です」

 アラスターは椅子を引き、腰を下ろした。

「良い酒だとして、いくらになるのか。いつ金が入るのか。それを君は言えるのか」

「今すぐには言えません。品質を確かめることと、販売条件を決めることの両方が必要です。日本の業者が試飲を求めていたのなら、そこからやり直すことはできます」

「その間の給料を、どう払う」

 フィオナが父を見た。嘉一は答える前に、資金繰り表の数字を思い返した。アラスターの問いは、議論を逃れるためのものではなかった。工場が良い酒を造っていると認めても、来週の支払いができなければ、経営者は別の決断を迫られる。

「銀行と、支払いの相手に確認しなければなりません。うちの会社がどの条件なら取引や出資を検討できるかも、その先です」

 アラスターは眼鏡を外し、机へ置いた。

「母親がいなくなってから、私はこの子に頼りすぎた。大学へ行かせて、別の仕事も見つけていたのに、結局、ここへ戻してしまった」

「戻ると決めたのは私よ」

「お前がそう言っても、他に選べるような状況ではなかった」

 フィオナは何か言いかけたが、口を閉じた。父が後悔していることと、自分が選んだことは、同じ過去を指しながら、互いにうまく重ならなかった。

 その後、アラスターは電話のために部屋を出た。フィオナは検査帳を棚へ戻さず、しばらく椅子に座っていた。嘉一が資料を揃えていると、彼女は窓を見たまま話し始めた。

「父は、私がここで何をしているか知っています。忙しいときには頼んでくれますし、酒の相談もします。でも、本当に大事な話になると、私はまた、大学から帰ってきた娘になるんです」

 嘉一は手元の紙を置いた。

「数字を知らないのは、私の責任です。リードに任せていたのも、本当です。でも、だからといって、私が書いた検査記録まで、私の意見ではなくなっていいとは思えません」

「なら、明日もあなたから説明してください。樽の番号と採取日、原本を揃えて。私が酒の評価を説明するより、その方が確かです」

 フィオナは嘉一を見た。励ますための言葉を期待していたのかもしれないが、彼が渡したのは、次にすべき仕事だった。彼女は机の帳面を引き寄せ、必要な記録をもう一度開いた。

「父に、信じてもらえるでしょうか」

「原本は残っています。午前中に飲んだ酒も、樽の中にある。確認できるものから話しましょう」

 フィオナは頷き、薄い紙を帳面の間へ挟み始めた。肩の力はまだ抜けていなかったが、指先の動きは落ち着いていた。

 アラスターが戻ったとき、外はすでに暗くなり始めていた。事務所の窓に灯りがともり、仕込み棟の前では最後の作業を終えた男が扉を閉めている。父は2人の前へ立つと、リードとの打ち合わせを明朝にすると伝えた。

「売却の予定も、確認しておきたいんです」と嘉一が言った。「いつ、どこで、何を決めることになっていますか」

「来週、エディンバラで最終の話をするはずだった」

 アラスターはそこで、机上の評価表を見た。

「今朝、日取りが変わった。先方の担当者がこちらへ来る。金曜日に、ここで署名を済ませたいそうだ」

 フィオナが父の顔を見上げた。その日は水曜日だった。ユアンが、金曜日までに作業場を片づけるよう言われた理由も、それで分かった。

「もう、決めたの?」

「条件を確認してからだ。まだ署名はしていない」

 アラスターは娘へそう答えた後、嘉一に向き直った。

「君は、うちの会社と取引するかどうかを見に来ただけだ。ここまで関わる必要はない」

 嘉一は、机に置いたファクスの控えと、開かれた検査帳を見た。訪問前には、良い酒を造る蒸留所かどうかを確かめれば足りると思っていた。いまは、その酒が良いことを知っている人間の判断まで、売却のための資料の中で変えられている。

「金曜日までに、分かることはあります。売却を選ぶにしても、正しい資料で選んだ方がいい」

 アラスターはしばらく黙っていたが、やがて上着のポケットから事務所の鍵を出した。嘉一が受け取ると、彼は会議室の棚に売却契約の草案があることと、銀行へ連絡するなら自分も同席することを告げた。

 品質管理室を出る前に、嘉一はフィオナへ翌朝の記録を頼んだ。彼女はすでに必要な樽番号を書き出しており、その隣には、父が同じ酒を試飲した日まで記していた。

 夜の事務所では、電話とファクスだけが別の土地へつながっていた。嘉一はロンドンの担当者へ連絡し、届いた資料を送る準備を始めた。窓の外には、貯蔵庫の屋根が暗い輪郭を見せている。そこには今朝味わった酒があり、まだ若い原酒も、次の判断を待つ樽も残っていた。それぞれをいつ、どの形で売るかによって、蒸留所が続けられるかどうかが変わる。

 契約の草案を開くと、買い手の名前の下に、リードが連絡窓口として記されていた。嘉一はそのページをめくり、原酒の扱いと従業員の雇用について書かれた箇所へ印をつけた。明朝、まず聞くべき質問は決まっていたが、それにどのような答えが返るかは、まだ分からなかった。

 敷地の灯りが一つずつ消えた後も、事務所の二階だけには明かりが残っていた。

第三章 守るための条件

 木曜日の朝、蒸留所の事務所には、いつもより早く人が集まっていた。窓の外では作業員が仕込み棟の扉を開け、小川を越える橋の上を麦芽の搬入車がゆっくりと進んでいる。製造の仕事は前日と同じように始まっていたが、二階の会議室では、昨日まで誰も疑わなかった説明を、原本に戻って確かめる準備が整えられていた。

 フィオナは机の上に検査帳を置き、その横へ樽番号をまとめた一覧を並べた。昨夜遅くまで作業したのだろう。目元には疲れがあったが、父が入ってくると椅子から立ち、どの記録をどの順番で見せるかを短く説明した。アラスターは娘の話を最後まで聞いてから、窓に近い席へ座った。

 リードが来たのは、その数分後だった。いつものように上着を椅子へ掛け、書類鞄からファイルを取り出したが、机に開かれた帳面を見ると、手を止めた。

「ずいぶん細かく調べたようですね」

「同じ樽の評価が違っていましたから」

 嘉一は売却資料を彼の前へ置いた。問い詰めるために声を強める必要はなかった。説明を求める箇所は、紙の上に残っている。

 フィオナが、1984年の樽の記録を読み上げた。採取日、アルコール度数、香りについての所見、そして瓶詰め候補として再び試飲するという結論まで、帳面の記載に沿って説明する。次に、売却資料で同じ樽がどう扱われているかを示した。リードは資料を読んだ後、指先で眼鏡を直した。

「品質管理の所見を、そのまま販売上の評価にはできません。良い香りがあることと、まとまった本数を商品として出せることは違います」

「それなら、そう書くべきです」とフィオナが言った。「この樽の品質に問題があると、私が判断したように書かれています」

「買い手へ説明するために、分かりやすくまとめたんです」

「私の署名を根拠にするなら、先に私へ確認してください」

 リードは彼女を見たが、答える前にアラスターへ顔を向けた。これまで重要な判断は、常にその相手と話してきたのだろう。しかし、アラスターは娘へ口を閉じるようには言わなかった。

「なぜ、フィオナに見せなかった」

「完成させる時間が限られていました。私が責任を持ってまとめれば済むと思っていた」

 嘉一は別の紙を取り出した。日本の輸入業者から届いたファクスの控えである。

「販売の検討についても、確認したいことがあります。こちらの業者は試飲用のサンプルを求め、輸送方法の案も送っています。返答がなかったそうです」

「最低発注量が合わなかったでしょう」

「その条件を検討するために、酒を試したいと書いてあります。不成立という記録だけでは、どちらが何を断ったのか分かりません」

 リードは紙を受け取り、日付を確かめた。嘉一はその間、口を挟まずに待った。相手が説明を考える時間を奪えば、こちらも事実を聞く機会を失う。部屋には下の工場から伝わる機械の音があり、リードが紙を机へ戻す音が、その上に小さく重なった。

「輸出を始めれば、瓶やラベルの準備も必要です。対応できる人間もいない。私は、そこへさらに金を使うべきではないと判断しました」

「その判断を、アラスターさんには?」

「相談していました」

 アラスターが顔を上げた。

「私は、日本では売れなかったと聞いた」

 リードはすぐには答えなかった。嘉一は、売れなかったという説明が、何を省いていたかを改めて述べた。注文が保証されていたわけではない。しかし試飲にも進まずに終えた商談を、市場に拒まれた結果として説明すれば、経営者は同じ市場をもう一度検討する理由を失う。

 アラスターはファクスを手に取り、手書きの署名と送信時刻を見た後、リードへ視線を戻した。

「他にも、私が見ていないものがあるのか」

「何をおっしゃりたいんです」

「売却に関係する書類を、全部見たいと言っている」

 昨夜までのアラスターは、リードにも説明があるはずだと娘を押し戻していた。いまも、長年の信頼が消えたわけではない。それでも、彼は初めて、リードが選んで見せた資料の外側へ手を伸ばそうとしていた。

 嘉一は契約草案の一節を示した。買収後の管理体制について、リードとの別途の合意に従うと記されている。昨夜、その部分に印をつけたときには、引き継ぎのための取り決めかもしれないと思っていた。

「これは、どのような合意ですか」

「買収後も私が残るという話です。銀行や取引先との関係を、一度に切るわけにはいきませんから」

「条件を書いたものはありますか」

「まだ、アラスターに説明する段階ではありません」

 アラスターが椅子の背から身体を起こした。

「私の会社を売る契約に、お前の条件が関わっている。それを、なぜ私に説明する段階ではないと言える」

 リードは机の上のファイルを閉じかけたが、途中で手を止めた。

「明日、先方から説明があります」

「その説明を受けるまでは、署名しない」

 アラスターの言葉に、リードは小さく息を吐いた。やがて、売却資料の記述は見直すと答えたが、謝罪はなかった。会議が終わると彼は書類を集め、通常の支払い業務があると言って部屋を出た。

 扉が閉まった後も、アラスターはしばらく座ったままだった。フィオナは検査帳を閉じずに待ち、嘉一は契約草案を自分の手元へ戻した。

「給料の支払いは、明日ではないんですか」

 アラスターに訊くと、月末だという。

「銀行の返済は?」

「今月末に一つある。来月にも」

 嘉一は昨夜確認した日付を指で押さえた。厳しい状況であることは変わらない。しかし金曜日に売却へ署名することと、その日までに支払いができなければ工場が止まることは、別だった。リードは買い手の日程を、蒸留所が決断しなければならない期限へ置き換えていた。

「まず、銀行へ行きましょう。どれだけ時間があるかを、直接確認したい」

 アラスターは頷き、机の電話へ手を伸ばした。

 昼前、2人は近くの町にある銀行を訪ねた。小さな支店の応接室には、乾いた暖房の空気が満ちていた。担当者はグレン・ブレアの事情をよく知っており、リードとも何度も面談していた。

 借入金の返済条件をただ緩めてほしいという話なら、これまでも聞いていた。嘉一は、そこへ別の資料を置いた。今後数か月の支払いを週ごとに並べ、既存の売掛金がいつ入るか、どの修繕をどこまで先延ばしできるかを記した表だった。銀行の担当者は、販売先からの問い合わせにも目を通した。

「これが注文になるという確証は?」

「まだありません。試飲に進める相手がいる、という段階です」

「それだけでは、追加の融資は難しい」

「承知しています。こちらが資金を入れることを検討しています。その間、現在の融資を維持し、返済日について相談できるかを確認したいんです」

 担当者は嘉一の会社名を見て、質問を変えた。資金を入れる形、社内の承認、必要な調査の期間。嘉一は分かることだけを答え、ロンドンの担当者にも確認してもらうことにした。

 その場で新しい融資が決まることはなかった。それでも銀行は、売却先以外から具体的な資金計画が示されるなら、短期間の猶予について検討すると答えた。面談を終えて外へ出ると、アラスターは支店の入口で足を止めた。

「リードと来ると、いつも最後は、売るしかないという話になっていた」

「売ること自体が、必ず悪いわけではありません。ただ、他の案を見せなければ、銀行も他の案を判断できません」

 アラスターは通りの向こうを見た。パン屋の窓には昼食用の品が並び、買い物を終えた人々が、いつもと同じ足取りで店を出入りしている。その町にも、蒸留所で働く人間の家があるはずだった。

「君の会社は、本当に金を出すのか」

「出せる条件を作っています。父も会社の財務担当も、昨日の夜から資料を見ています」

「父上に頼めば済む話ではないのだな」

「頼んで済むなら、昨夜はもっと早く寝ていました」

 アラスターは、その日初めて少し笑った。

 蒸留所へ戻ると、嘉一はロンドンへ電話した。父の嘉将は、事業の担当者とともに送った資料を見ていた。受話器の向こうでは、ときどき別の人間の声が入り、数字を確認するために会話が止まった。

「酒は良いんだな」

「良い樽があります。通常の商品として続けられる原酒もあります。ただし、全部が同じ値段で売れるわけではありません」

「売り先は?」

「日本の専門店とバーを扱う輸入業者から始めたいと思います。サンプルは今日送ります。最初から大きな数量を見込む計画にはしません」

 父は売却価格よりも、今後必要になる資金を細かく訊いた。熟成した原酒を売って当面の金を作れても、それを全部売り切れば、次に何を売るのかという問題が残る。製造を続ける費用と、すでにある酒を瓶にして販売する費用を混同すれば、しばらく後に同じ苦境へ戻ることになる。

 嘉一は、昨夜作った表へ書き込みを加えながら話した。銘柄を売り込む費用にも上限を置き、販売が想定より遅れた場合の資金繰りも用意する。古い樽の評価については、会社の外から経験のある人間を呼び、フィオナの記録と現物を確認してもらう予定だった。

「お前が気に入ったから、というだけでは会社の金は出せない」と父が言った。

「分かっています」

「だが、向こうが売るしかないと思っているからといって、その値段だけを見て買う必要もない。続けられる商売なら、続けるためにいくら要るかを出せ」

 嘉一はその言葉を聞きながら、父が海運の仕事で船を見ていた姿を思い出した。船価が安くても、航路と積荷と乗組員が揃わなければ事業にはならない。目の前の資産を買う判断と、その資産を使い続ける判断は、いつも一緒に考える必要があった。

 電話を終えた後、嘉一はアラスターとフィオナを会議室へ呼んだ。対案の中心は、チカミ側が新しく発行される株式を引き受け、蒸留所の会社へ資金を入れることだった。マクレーン家の持ち株を買うだけでは、代金が家族へ渡っても会社の支払いは楽にならない。必要なのは、製造と修繕を続け、販売が育つまで持ちこたえるための金だった。

 チカミ側は一定の株式と経営への関与を求めるが、マクレーン家にも経営権を残す。その上で、日本向けの販売契約を結び、最初の出荷量と価格を段階的に決めていく。出資の調査と契約に時間がかかるため、当面の支払いに必要な金は、別の短期融資でつなぐ案だった。アラスターは、提案書を一枚ずつ読んだ。

「私が、今まで通りにやれるという話ではないな」

「製造は、あなた方の経験を頼りにします。ただ、経営資料は毎月確認します。大きな支出や、原酒をまとめて処分する判断も、決めた手続きで行ってください。財務を一人に任せて、他の人間には分からない状態には戻せません」

 アラスターはリードの机がある方へ目を向けたが、すぐに資料へ戻した。

「フィオナにも、数字を見てもらう必要があります」と嘉一は続けた。「品質の判断が、会社の計画でどう使われるかまで確認してほしい」

 フィオナは、自分の名前が書かれた箇所を読んでいた。日本向け商品の品質管理と、原酒の選定を担当する案になっている。

「私には、輸出の経験がありません」

「販売と輸送はこちらで担当します。何を、どれだけ、いつ出せるかは、あなた方に決めてもらわなければなりません」

「できない数量を、できると言ってはいけないということですね」

「それもあります。良い樽を全部、最初の出荷に使う必要もありません」

 フィオナは頷き、提案書の余白に樽の年と番号を書いた。父が何を選ぶかを待つだけだった彼女の手元に、初めて、続けるための仕事が置かれていた。

 夕方になると、フィオナは発送するサンプルを揃え始めた。ラベルには蒸留年、樽番号、採取日と度数を記し、どの瓶が通常商品の試料で、どれが限定商品として検討できる原酒なのかを分けていた。試飲したときの説明を、遠い土地の相手も同じように読めるよう、短い所見を添えている。

 嘉一は事務所で電話を続けた。ロンドンの会社は、必要な確認を条件に、つなぎ資金と出資の交渉を進めることを了承した。地元の弁護士にも入ってもらい、翌日の売却契約への対応と、今後の書類を確認する。まだ何も終わっていなかったが、金曜日に売らなければ他に道がない、という状況ではなくなりつつあった。

 フィオナが茶を運んできたとき、嘉一は別の電話を掛けていた。扉が少し開いていたため、彼女は声をかけず、廊下で待った。

「真梨。遅くなってごめん。もう少し、こちらにいることになりそうだ」

 仕事の電話とは違う声だった。大きく調子が変わったわけではないが、相手の返事を待つ間に、嘉一の顔から緊張が抜けた。

「帰ったら、その話を聞かせて。電話だと、いつも途中になるから」

 彼は相手の話を聞き、少し笑った。その笑い方を、フィオナは初めて見た。会議室でも笑う人だったが、そこには仕事の途中で周囲を和ませるための気遣いがあった。いまの笑みは、何かを説明したり、相手を安心させたりする必要のない場所へ、ひととき戻ったように見えた。

 左手には指輪があった。彼が結婚していることは、訪問前に送られてきた経歴にも記されていたし、食卓で日本の家族の話をした際にも聞いていた。それでも、妻へ掛ける声を実際に聞くと、その事実は紙に書かれたものとは違う近さを持った。

 電話が終わったところで、フィオナは扉を叩いた。

「お茶を持ってきました。冷める前にと思って」

「ありがとう。ちょうど休もうと思っていました」

 嘉一が机の一角を空けると、彼女は茶と小さな皿を置いた。

「奥様ですか」

「ええ。予定が変わったことを、まだ伝えていなかったので」

「お仕事で、よく留守にされるのでしょう」

「だから、帰る日を曖昧にしたままにしないようにしています。今回は、明日の話が終わったら決められると思う」

 彼はそう言って、机の端に置いた手帳へ帰国便の確認と書き込んだ。フィオナはその手元を見ながら、自分が運んできた皿を少し動かした。嘉一にとって、この谷は、仕事を終えたら帰る場所が別にある土地だった。

 そのことを寂しく感じた自分に気づき、彼女は視線を窓へ向けた。

「少し、外を歩きませんか。雨が止んでいます」

 嘉一は外を見て、上着を取った。

 夕暮れの谷には、雲の下に細い明るさが残っていた。仕事を終えた蒸留所は静かで、小川の水音が昼間よりはっきり聞こえる。フィオナは家とは反対の方向へ嘉一を案内し、草の間を通る小道へ入った。短い散歩のつもりだったが、事務所で長く座っていた身体には、その冷たい空気が心地よかった。敷地を離れると、道は草の中へ細く続いていた。フィオナが踏んだ場所から湿った土の匂いが立ち、嘉一の靴の下では小さな石が動いた。低い枝の先には雫が残っており、彼女が身をかがめて通ると、コートの肩へ数滴が落ちた。

 山の向こうから風が下りてきた。谷の木々が順に揺れ、少し遅れて、2人の足元の草も同じ方向へ伏せた。フィオナは襟元を押さえ、嘉一を振り返った。風で頬にかかった髪を払う指が冷えているらしく、彼女は手をすぐにコートのポケットへ戻した。林の端には、根元を苔に包まれた古い木があった。曲がった幹から枝が川の方へ伸び、その下だけ水面が暗く見える。嘉一は歩調を緩めた。こうした木や流れに、昔の人々が物語を結びつけたことは、少しも不思議ではなかった。水の音は見えない場所から聞こえ、枝は風が弱まっても動いている。日が落ちれば、昼間に見たものの形さえ確かではなくなる。

 フィオナも彼に合わせて歩く速度を落とした。しばらく話さなくても、川と風が沈黙を埋めてくれた。彼女には、次に何を言うかを考えず、ただ隣にいることのできるその時間が、会議室で過ごした何時間より短く感じられた。小道の先には、壁の一部だけが残った古い建物があった。フィオナによれば、昔は水を利用して穀物を挽いていた場所だという。使われなくなった後も取り壊されず、木が伸び、石の隙間には苔がついていた。

「子供のころは、もっと大きな建物だと思っていました。祖母とここまで歩いて、帰りに歌を教えてもらったんです」

「ゲール語の歌ですか」

「ええ。今でも旋律は覚えています。でも、意味を説明しろと言われると、途中で困ります」

 フィオナは照れたように笑い、小さな声で節を口ずさんだ。言葉は水音に混ざって嘉一にはよく聞き取れなかったが、彼女が仕事中に話す声とは違って、音が長く残る歌い方だった。歌には、家を離れた人間が土地を思う内容があるという。誰から誰へ伝わったか分からないまま、家族の中に残ったものだった。

「私は、エディンバラにいたときには、この谷を狭いと思っていました。帰ると何をしていたか全部知られてしまうし、昔から知っている人たちには、いつまでも子供のように扱われる」

 彼女は古い壁の前で足を止めた。

「でも、なくなっていいと思ったことはありません。離れたいことと、なくしたいことは、同じではないんですね」

 嘉一は足元の石を見ながら、彼女の話を聞いていた。

「父も、日本を出て会社を作りました。離れたから、ようやく分かったこともあると言っていました」

「あなたにも、そういう場所がありますか」

「あります。帰るたびに変わっているけれど、覚えているところも残っている。全部そのままであってほしいとは思わないですが」

 フィオナは、彼が古い建物を眺めている横顔を見た。きれいに保存された城だけでなく、工場の壁や使われなくなった水車小屋にも、彼は同じように目を向ける。彼女の仕事についても、結果だけを褒めるのではなく、その判断を確かめるために時間を使っていた。

 昨日、自分を仕事のできる人間として扱ってくれたことが嬉しかった。今日、その人が妻と話す声を聞いて、嬉しさだけでは説明できない気持ちが生まれた。いま、何も話さず隣に立っている時間を、もう少し長く続けたいと思っている。フィオナは、嘉一が振り向く前に、小川の方へ目を戻した。

 帰り道の細い橋は、雨で板が濡れていた。彼女が端へ寄ったとき、靴の底がわずかに滑り、身体が傾いた。嘉一はすぐに腕を伸ばし、肘の少し上を支えた。

「大丈夫ですか」

「ええ。いつも通っているのに」

 足元を確かめて立ち直ると、彼の手はすぐに離れた。何でもない短い動作だったが、フィオナには、コート越しに腕を支えた力がしばらく残った。嘉一は先へ進まず、彼女が橋を渡り切るのを待っている。

「私が案内しているのに、助けてもらってばかりですね」

「この橋のことは、私の方が知らない。危ない場所へ立ったのが私なら、あなたに助けてもらいます」

 フィオナは笑った。嘉一も笑い、再び小道を歩き始めた。その先に何か別の意味を置く様子はなく、家へ戻れば書類の確認を続けるつもりなのだろう。彼女はその隣を歩きながら、会話を急いで探さなかった。

 金曜日の午前、買い手の担当者が蒸留所へ到着した。濃い色の車から降りた男は、ネイサン・コールと名乗り、同行した弁護士を紹介した。グレン・ブレアを買収するために設けられた会社の役員であり、資金は国外に拠点を持つ投資ファンドが出すという。

 リードは玄関で2人を迎え、工場ではなく、直接会議室へ案内した。机には、前日までに確認した資料と、チカミ側の提案書が並んでいた。アラスターの隣にフィオナが座り、彼が長年相談してきた地元の弁護士も同席していた。嘉一は窓側の席で、コールが持ってきた書類の束を見た。

「今日は署名を予定していましたが」とコールが切り出した。

「その前に、確認したいことがあります」とアラスターが答えた。「原酒の評価と、リードの買収後の条件です」

 リードは小さく姿勢を変えたが、口は挟まなかった。

 フィオナが記録の違いを説明すると、コールは、自分たちは外部の専門家によって原酒を確認していると答えた。机へ置かれた報告書には、複数の樽が良好な熟成状態にあると記されていた。木の影響が強く出すぎた樽も区別され、内容はフィオナの説明に近かった。アラスターはその報告書を読んだ後、リードの評価表と並べた。

「お前も、これを見ているのか」

「買い手側の評価です。同じ見方をする必要はありません」

「私には、なぜ見せなかった」

 リードは、売り手側の資料はすでに揃っており、先方の判断まで伝える必要はないと思ったと答えた。しかし、アラスターはその説明を受け流さず、買収後の条件を書いたものを求めた。コールはリードを見た。リードが答えないため、同行の弁護士と短く話し、別の書類を鞄から出した。そこには、リードが買収後の運営責任者として雇用される条件が記されていた。現在より大幅に高い報酬に加え、売却の成立を条件とする特別手当がある。署名欄には、リードの名前と日付が入っていた。アラスターは金額の欄で目を止めた。

「これを、いつ受け取った」

「交渉の途中です」

「私が、売るしかないと聞いていたときか」

 リードは、長く会社のために働いた人間が、売却後の職を確保することの何が悪いのかと答えた。以前の危機に銀行へ通ったこと、経営者が製造へ戻った後も、自分は借入金や支払いの問題から離れられなかったことを口にした。その話には、事実が含まれていた。ユアンが語った過去も、アラスターが彼を頼っていた年月も、消えるわけではない。嘉一は手元の契約草案を閉じた。

「売却後の職について話すことはできます。ですが、その条件を隠したまま、売る側の判断に必要な情報を選び、品質の評価を変えることとは別です」

 コールは、売り手側の社内手続きには自分たちは関わっていないと言った。彼らが示した価格は、買い手として引き受ける借入や、設備の修繕、販路を作る費用を踏まえたものだという。嘉一はその説明を聞いた上で、チカミ側の案を示した。買収価格をつり上げるための材料として持ち込んだのではなかった。マクレーン家が経営を続けるための資金と、販売の仕事を引き受ける案だった。コールは書面を読み、つなぎ融資が実際に用意できるか、出資はいつ確定するのかと訊いた。嘉一は、会社が交渉を進めることを了承した書面と、融資の条件を示した。必要な確認は残っていたが、前日から弁護士と財務担当が作業を進めている。銀行も、それを前提に返済日について協議する用意があると答えていた。

 アラスターは、机上の2つの提案を見ていた。長く務めた番頭が示した売却案と、数日前まで顔も知らなかった男が持ってきた存続案である。しかし、新しい提案にも、条件はあった。金を入れてもらえば、以前と同じように製造だけを見ていればよいわけではない。自分も数字を読み、娘にも会社の判断を任せなければならなかった。フィオナは父の手元を見ていたが、代わりに答えようとはしなかった。アラスターは地元の弁護士へ何点か確認した後、コールへ顔を向けた。

「今回の売却は、進めません。こちらの提案を、正式に詰めます」

 コールは一度だけ考え直すよう求めた。出資の成立までには調査も必要であり、販売が予定通り進む保証もない。アラスターは、そのことは理解していると答えた。

 会議が終わり、コールたちが席を立った後、リードも書類を鞄へ戻した。アラスターは彼を呼び止め、会社の鍵と資料を引き継ぐよう求めた。具体的な手続きは弁護士を通して決めるが、これからの交渉を彼へ任せるつもりはないという。

「30年だぞ、アラスター」

 リードの声には、怒りと、まだ通じるはずだという期待が混ざっていた。アラスターは鞄を持った男を見た。かつて銀行へ通い、従業員の給料を守り、自分が酒を造っている間に、会社を支えていた男だった。

「その30年のために、私はお前の説明を信じた」

 彼はそれ以上、言葉を続けなかった。リードが部屋を出ると、階段を下りる足音が聞こえ、しばらくして敷地の砂利を車が踏む音がした。会議室には書類が残り、窓の外では仕込み棟の煙突から煙が上がっていた。売却を止めても、明日の仕事と月末の支払いがなくなるわけではない。アラスターは椅子へ座り直し、嘉一に向き合った。

「では、私たちの方の条件を、もう一度聞こう」

 嘉一は提案書を開いた。製造計画、販売数量、支出の承認、財務の報告。フィオナも隣へ座り、昨日書き出した樽番号を机へ並べた。話は長く続いたが、今度は誰も、結論だけを受け取って席を立とうとはしなかった。

 夕方、弁護士を見送り、アラスターが工場へ戻ると、フィオナは玄関の外で嘉一を待っていた。雨は上がり、白い壁の一部に、雲の間から弱い光が射している。

「終わったという感じは、しませんね」

「これから決めることの方が多いです」

「それでも、昨日までとは違います」

 彼女はそう言って、敷地の奥を見た。作業場ではユアンが道具を片づけ、貯蔵庫の前では職人たちが何かを話している。父がその輪へ加わると、一人が扉の方を指した。

 フィオナは嘉一へ目を戻した。

「あなたに来てもらえて、よかった」

 仕事の礼として言うつもりだった。だが、口にした後、自分が伝えたかったことは、それだけではないと分かった。昨日の橋の上で触れた手を思い出し、彼の顔を見ている時間が少し長くなった。

 嘉一はその言葉を受け取り、穏やかに頷いた。

「あなたの記録が残っていて、助かりました」

 彼女は笑った。彼らしい返事だったし、その返事が嬉しいことも本当だった。

 事務所へ戻る道で、嘉一は帰国便を確認したら真梨へ電話を掛けなければと思った。何日か延びた旅の理由は、一度の電話では説明しきれない。帰ったら、この谷のこと、樽の中で育つ酒のこと、それを守ろうとしている父娘のことを、ゆっくり話すつもりだった。

 フィオナは隣を歩きながら、もう一度だけ彼の左手へ目を落とした。その指輪を見ても、芽生えた気持ちが消えるわけではなかったが、どういう人を好きになり始めているのかは、昨日よりよく分かっていた。

 彼女はその気持ちを口にせず、翌日に選び直す原酒の話をした。嘉一が質問すると、今度は彼女が先に立って、貯蔵庫の扉へ向かった。

第四章 谷を渡る歌

 売却を断った翌日も、グレン・ブレア蒸留所では、いつもと同じ時刻に仕事が始まった。仕込み棟には麦芽の匂いが満ち、発酵槽の上では液面を確かめる男が手元の記録へ数字を書き入れている。貯蔵庫の前には修理を終えた樽が並び、ユアンはその一つを転がしてから、輪の位置をもう一度確かめた。

 変わったのは、工場の音ではなく、事務所に置かれる書類の流れだった。リードが管理していた資料は、アラスターと弁護士が立ち会って引き継いだ。すべてを短期間で調べることはできなかったが、当面の支払いと、既存の取引を続けるために必要な情報から順に揃えた。嘉一の会社が用意するつなぎ資金についても条件がまとまり、銀行との協議が進んだ。出資の契約は、その後の確認を経て正式に結ぶことになった。

 アラスターは毎朝、工場へ入る前に事務所へ寄るようになった。数字を見る仕事を誰かに任せることと、自分が知らずにいてよいことを、長い間、同じものとして扱ってきたのだろう。慣れない資料を読むのは楽ではないようだったが、分からない箇所では、以前のように紙を閉じず、質問をした。

 フィオナも会議に加わった。原酒を選ぶだけでなく、瓶詰めできる量と、それを出した後に残る在庫を説明する。嘉一が販売の予定を変えるたび、彼女は貯蔵庫の記録へ戻り、どこまで対応できるかを確かめた。日本向けの最初の商品には、普段から造っている12年熟成の銘柄を選んだ。1984年の良い樽は、限定の商品として後から検討することにした。最初に目立つ一本を出すより、次に注文が来たときも同じ銘柄を届けられるようにしておく必要があった。

「この樽は、今回には使わない方がいいと思います」

 日曜日の午前、フィオナは父の前へ、試飲用の小さな瓶を置いた。アラスターが好んでいた樽だった。酒そのものはよく育っていたが、現在の配合へ加えると、蒸留所らしい軽やかな果実の香りが少し隠れる。彼女はそう説明し、使わない場合の配合と並べて試してもらった。父は二つのグラスを交互に嗅ぎ、少量の水を加えた。しばらく何も言わず、嘉一にも香りを確かめるよう促した後、フィオナへグラスを返した。

「分かった。お前の案で進めよう」

 彼女は一瞬、手を止めた。それから記録へ採用する配合を書き、父に確認の署名を求めた。アラスターは眼鏡を掛け直し、記された内容を読んでから署名した。嘉一はそのやり取りを見ながら、机上の販売計画へ瓶詰めの予定日を書き入れた。父娘が同じ酒を試し、異なる意見を説明し、結論を記録する。その小さな仕事が、この蒸留所を続けるための新しい習慣になればよいと思った。

 嘉一が谷を発つのは、月曜日の朝だった。ここでなければできない確認は一通り終わり、残りはロンドンと日本から進めることになっていた。工場を何度も歩いたため、どの建物の扉が重いか、どの通路で頭上の配管に気をつけるべきかも、もう分かっていた。

 夕方、アラスターは礼に食事を用意すると言ったが、フィオナが村のパブへ行こうと提案した。家にいれば、父も嘉一も、途中で電話や書類へ戻ってしまう。日曜日の夜には、知り合いが楽器を持って集まることもあるという。

「食事の間くらい、樽の番号を忘れてもいいでしょう」

 彼女にそう言われ、アラスターは笑って上着を取りに行った。

 村までの道は、小川に沿って緩やかに下っていた。遠くの山には雲がかかっていたが、頭上には淡い夕空が残っている。フィオナはアイボリーのニットに深い緑色のスカートを合わせ、ツイードのコートを羽織っていた。作業中にはまとめていた髪を下ろしており、肩を少し越える赤褐色の毛先が、歩くたびに襟元で揺れた。

 ここ数日の彼女を見るとき、嘉一はたいてい、帳面や試料の瓶を一緒に見ていた。いまは手に持つものもなく、父と話しながら道を歩いている。街で出会ったときより表情が柔らかいのは、解決に向かっている仕事があるからなのか、ただ今夜は仕事を離れているからなのか、嘉一には分からなかった。

 パブは道路に面した低い石造りの建物だった。扉を開けると、暖炉の熱と、料理の匂いが流れてきた。壁には古い写真と地元の催しの案内が掛かり、窓際の席では年配の男たちがグラスを前に話している。ユアンはすでに来ていた。アラスターを見ると片手を上げ、嘉一のために椅子を引いた。

「金の話をしない席は、久しぶりだな」

「お前が修理の請求書を持ってきていなければ、そうなる」

 アラスターが答えると、ユアンは上着のポケットへわざと手を入れ、フィオナが笑った。料理が運ばれてくるころ、店の奥でフィドルの音がした。男が一人、椅子へ座ったまま短い旋律を弾き、隣の女性がアコーディオンを合わせた。誰かが演奏を始めると宣言したわけではなく、会話の間へ音が入り、やがて何人かがそちらへ身体を向けた。

 フィオナは、今夜は特別な催しではないと説明した。集まった顔ぶれによって、演奏だけのことも、歌や昔話が続くこともある。嘉一が、こういう集まりもケイリーと呼ぶのかと訊くと、彼女は頷いた。

「踊る集まりを思い浮かべる人が多いですけれど、もともとは、人が集まって話したり、歌ったりすることも含むんです。祖母の家でも、誰かが来れば、いつの間にかそうなっていました」

 嘉一は店内を見渡した。城や博物館で見る歴史とは違い、ここには、いま座っている人間が次の節を覚えていることで続くものがあった。ケルトの文化という言葉から、古い結び目の文様や石の十字架、霧の中の伝説を思い浮かべることはできる。しかし、フィオナの祖母が教えた歌は、展示品のように形を固定されたものではなかった。歌う人によって声も節も少し変わり、覚え違いや家族だけの言い回しを含みながら、その土地に残ってきた。

 彼女は、いま演奏されている曲にも、別の村では違う名前がついていると話した。

「祖母なら、あの弾き方は違うと言ったかもしれません」

「どちらが正しいのですか」

「祖母の前で聞けば、答えは一つです」

 フィオナはそう言って笑った。

 食事の後、奥の席から年配の女性が立ち、楽器が止まると歌い始めた。よく通る声ではなかったが、周囲の人々は話をやめ、知っている部分へ静かに加わった。フィオナも小さく口を動かしていた。嘉一には言葉が分からなかった。彼女が後で教えてくれたのは、海を渡った人間が、故郷の景色を思い出す歌だということだった。言葉の一つ一つを訳すというより、どこで誰が何を思っているのかを説明してくれた。

「家へ戻りたいという歌?」

「戻りたいけれど、戻れるかどうかは分からない。そんな歌です。歌っている人が、必ず同じ理由で離れたわけではないと思います」

 彼女の祖母も、若いころは島を離れ、働くために別の町で暮らしたという。家族の中には、さらに遠くへ渡り、手紙と写真だけが残った人もいた。フィオナが幼いころに聞いた歌には、その人々の話が混ざっていたらしい。嘉一は、蒸留所の壁に掛かった創業者の写真を思い出した。土地を守った人間の話は、その土地に残りやすい。離れた人間の人生を覚えておくには、手紙や歌のように、別の形が必要だった。

 歌が終わり、暖炉の近くで拍手が起きた。フィドルの男が再び弓を持つと、今度は軽快な曲が始まった。店の主人が椅子をいくつか壁際へ寄せ、若い男女と年配の夫婦が立ち上がった。フィオナも知り合いに呼ばれ、コートを椅子へ掛けた。立ち上がる前に嘉一を見た。

「踊りますか」

「手順を忘れていたら、教えてください」

「それなら、間違えても大丈夫です。ここでは誰かが直してくれます」

 何人かで組む踊りだった。向かい合う相手と手を取り、列を移り、曲の区切りに合わせて向きを変える。嘉一は最初の数歩で周囲の動きを確かめ、その後はフィオナの合図に従った。彼女の指先は、外を歩いたときより温かくなっていた。回るたびに緑色のスカートの裾が揺れ、赤褐色の髪が頬へかかった。フィオナはそれを払う暇もないまま笑い、嘉一が向きを間違えかけると、握った手へわずかに力を加えて引いた。

「こちらです」

「助かりました」

 彼が笑って答えると、彼女も笑った。その短い会話は、音楽に混ざって、2人にしか聞こえなかった。

 曲が終わった後、フィオナは息を整えながら席へ戻った。ニットの襟元に熱がこもり、頬は少し赤くなっていた。嘉一が水のグラスを寄せてくれたので、彼女は礼を言って受け取った。触れた手の温かさを、彼も同じように覚えているのだろうかと考え、すぐにその考えを自分で止めた。嘉一はアラスターに声をかけられ、先ほどの歌について話している。明日からまた仕事をする相手と、村の夜を楽しんでいるだけなのだろう。それでも彼女には、彼が隣の椅子へ戻ってくるのを待つ数秒が、妙に長く感じられた。

 パブを出ると、夜気が熱の残った頬を冷やした。アラスターはユアンと話があると言い、もう少し店に残った。嘉一とフィオナは、家までの道を歩いて戻ることにした。道の両側では、石壁の家の窓に灯りがともっていた。空には雲が残っているが、その切れ目に星が見える。昼間の車の音はなく、川の水音と、2人の靴が砂利を踏む音が続いていた。最後の家を過ぎると、道の先は急に暗くなった。灯りのある場所では見えていなかった星が、雲の切れ目にいくつも現れている。山は空より濃い黒色の輪郭となり、谷底を流れる川だけが、見えないまま音を立てていた。

 風が吹くと、フィオナは嘉一に近い側へ少し身を寄せた。道幅が狭くなったためでもあり、冷たい空気を避けるためでもあったが、肩の近くに彼の上着があることを意識していた。歩く拍子にコートの袖が触れ、離れる。その小さな感触が、先ほどまでの音楽よりはっきり残った。彼女が足を止め、暗い山裾を指した。春になると、あの辺りから鳥の声がよく聞こえるという。嘉一も立ち止まり、彼女の指す方を見た。いまは何も聞こえなかったが、2人はしばらくそのまま耳を澄ませた。

 パブで聞いた歌を、ずっと昔の人間も、こうした夜に歌っていたのかもしれない。火のある家を出れば、すぐに広い闇があり、道を知る人間の足音だけが頼りになる。フィオナは隣の嘉一を見たが、彼が振り向くと、寒くなりましたねと言って歩き始めた。嘉一は小さな紙袋を持っていた。フィオナがそれを見ると、村の店で買ったマフラーだと教えた。淡い灰色に青を織り込んだ、柔らかなウールの品だった。

「奥様へのお土産?」

「ええ。日本を出る前に、寒くなってきたと話していたので」

「この辺りの羊毛を使ったものですね。その店の品は、母も好きでした」

「それなら、選んでよかった」

 嘉一は袋の口を確かめ、折り目を丁寧に戻した。フィオナはその手つきを見て、昨日の電話を思い出した。妻はここにいないのに、彼の一日の中には、ごく自然にその人の場所がある。

 道が家と蒸留所へ分かれるところで、2人は足を止めた。フィオナはコートの襟元へ手を添え、嘉一を見た。家の玄関から漏れる灯りが、彼の顔の片側へ淡く届いていた。

「あなたが、ただお酒を買いに来た人だったら、どうなっていたんでしょう」

「良い酒を見つけて、条件が合わずに帰ったかもしれません」

「私は、その人を嫌いになったかもしれません」

 嘉一は少し考えてから答えた。

「仕事なら、そういうこともあります」

 フィオナは彼の顔を見ていたが、やがて小さく笑った。

「そういうところですね」

「何がですか」

「今夜くらい、もう少し都合のいいことを言ってもいいのに」

 嘉一も笑ったが、彼女の言葉を別の方向へ進めようとはしなかった。代わりに、帰国後に連絡を入れる日を確かめ、最初のサンプルを試した日本の業者から、早ければその週のうちに返事があるだろうと話した。フィオナは頷き、明日の朝は自分が駅まで送ると告げた。嘉一が礼を言うと、彼女は玄関へ向かった。扉を開ける前に一度振り返ったが、彼はすでに、家の窓に掛かった灯りを見ながら歩き始めていた。紙袋は、その手に大切そうに持たれていた。

 翌朝、谷には霧が下りていた。貯蔵庫の屋根も山の斜面も、昨日までより近いところで見えなくなっている。嘉一は朝食を終え、荷物を玄関へ運んだ。アラスターはすでに外で待っていた。工場の仕事を始める前の上着姿で、手には、グレン・ブレアのボトルを入れた箱があった。

「仕事で送る酒とは別だ。家で飲んでほしい」

「ありがとうございます」

「今度は、もう少しゆっくり来てくれ。見せていない場所もある」

 嘉一は箱を受け取り、握手をした。父が工場へ戻ると、フィオナが車の後部へ荷物を積んだ。彼女は初めて会ったときと同じコートを着ていたが、髪には霧の細かな雫がついていた。駅までの道で、2人は出荷の準備について話した。新しいラベルの校正、瓶詰めの予定、輸送会社へ渡す書類。どれも必要な話だったが、フィオナは、いつもなら自分から尋ねる項目を、今日は思い出すのに時間がかかった。駅の前へ着くと、嘉一は荷物を下ろした。彼女も車を降り、扉を閉めた。列車まではまだ少し時間があり、急いで別れる必要はなかったが、その数分に何を言えばよいかが決まらなかった。

「サンプルの返事が来たら、私にも教えてください」

「もちろん。あなたの説明が必要になると思います」

「それなら、準備しておきます」

 嘉一は頷き、書類鞄を持ち直した。フィオナは彼の上着の襟元を見た。昨夜は手を取って踊り、今朝も隣の席で話していたのに、いま手を伸ばす理由は何もなかった。彼女は握手を求めた。嘉一が手を差し出すと、その指を包み、ほんの少しだけ長く握った。

「次にいらっしゃるときは、奥様もご一緒に」

 言い終えてから、笑みを保つために少し息を吸った。

「そうします。真梨にも、ここを見せたい」

 嘉一は素直に答えた。その声には、彼女が望んだかもしれない迷いも、期待させるための余地もなかった。

 フィオナは手を離した。

「お待ちしています」

 嘉一が駅へ入ると、彼女はすぐには車へ戻らず、扉の向こうへ消える姿を見送った。何か言い残したように感じたが、その言葉を言わなかったことまで悔やんでいるわけではなかった。彼女は車へ乗り、蒸留所へ戻った。谷へ入るころには霧が少し薄れ、白い建物の壁が見えてきた。敷地へ車を停めると、父が仕込み棟の入口から手を上げた。

「瓶詰めの担当者が来ている。昨日の配合を説明してくれないか」

 フィオナはコートを脱ぎ、髪をまとめた。品質管理室の机には、次に採取する樽の一覧が置かれている。彼女はそれを手に取り、工場へ向かった。

 数週間後、日本向けの最初の荷物が貯蔵庫の前に並んだ。出資の手続きは進み、修繕の予定も決まっていた。販売先からは、数量と条件を詰める連絡が届いている。以前、試飲を求めたまま返事を受け取れなかった業者も、その中に含まれていた。工場が突然豊かになったわけではなかった。アラスターは請求書を読み、フィオナは瓶詰めされた酒の検査を行い、事務所では輸送の書類を一枚ずつ確かめた。新しい取引のために必要な仕事が増え、それを覚える時間も必要だった。

 フィオナは箱の番号を出荷一覧と照らし合わせ、最後の欄へ署名した。箱の中には、谷で造られ、ここで熟成を待ち、父と自分が味を確かめた酒が入っている。アラスターは隣でその様子を見ていた。

「これで、出せるか」

「ええ。確認しました」

 彼は頷き、搬出を待つ男へ声をかけた。箱が一つずつ車へ積まれ、工場の前にできていた列が短くなっていく。フィオナは、最後の箱が持ち上げられるところを写真に撮った。その写真を現像したら、出荷報告と一緒に日本へ送るつもりだった。嘉一が知るべきことは、契約がまとまったという事実だけではない。彼が去った後も、仕事が続いていることを見てもらいたかった。

 同じ日の夕方、彼女は品質管理室の窓を開けた。小川の水音が聞こえ、遠くでは誰かが作業場の扉を閉めている。手元には、次の瓶詰めに使う原酒の記録があった。嘉一を思い出すことは、まだあった。試料の香りを確かめる横顔や、橋の上で腕を支えた手、夜の道で妻への土産を持っていた姿が、仕事の途中でふと浮かんだ。そのたびに、彼女は少しだけ手を止め、それから次の欄へ目を戻した。

 初出荷の報告が日本へ届いたころ、東京では夕方の風が冷たくなっていた。嘉一は自宅の食卓にボトルを置き、送られてきた写真を真梨へ見せた。貯蔵庫の前には箱が積まれ、アラスターとフィオナが従業員たちと並んでいる。写真の端にはユアンもいて、腕を組み、カメラとは少し違う方向を見ていた。

「この人が、樽を直していた人?」

「そう。長く、この蒸留所を知っている。リードが昔、給料を守った話も、この人から聞いた」

 真梨は写真を見ながら、嘉一が帰国した日に聞いた話を思い出しているようだった。彼が留守にした間の出来事は、まだ少しずつ説明が増えていた。城の岩肌や、古い水車小屋のことなど、会社へ出す報告書には入らない話の方が、自宅では長くなった。真梨の椅子には、スコットランドで買ったマフラーが掛けられていた。帰宅するときに使ったのだろう。淡い灰色の中にある青が、室内の灯りでは少し深く見えた。嘉一はグラスを二つ用意し、酒を少量ずつ注いだ。真梨が香りを確かめる間に、水の入った小さな器を置く。

「少し加えると、また違う香りになる」

「どのくらい?」

「最初は、ほんの少しで」

 彼女が水を加えると、嘉一も同じようにグラスを揺らした。麦と果実の香りの奥に、谷の冷たい貯蔵庫で確かめた、細い煙の気配がある。

「これを、あの樽の中で待っていたのね」

「樽ごとに違う酒を、最後に合わせている。この味にするのは、フィオナの仕事だ」

 真梨はもう一度写真を見た。

「今度は、私も行ってみたい。あなたの話だけでは、景色が大きすぎて」

「連れていくと約束してきた」

「それなら、ちゃんと時間を取ってください。仕事のついでに城へ寄るだけでは足りなさそうだから」

 嘉一は笑い、彼女のグラスへ目を向けた。

 窓の外では、通りを車が走り、向かいの建物に灯りがともり始めていた。食卓の上には、出荷を確かめた紙と、従業員たちの写真がある。その隣で、真梨がグラスを持ち上げ、少量の酒を口に含んだ。嘉一もグラスを取った。谷で聞いた歌の旋律は、もう正確には思い出せなかったが、小川の音と、フィオナがその意味を話してくれた声は覚えていた。真梨が感想を言おうと顔を上げたので、嘉一はグラスを置き、彼女の方へ身体を向けた。

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