第四話 海峡の火
第一章 世界の船が集まる場所
1999年7月のシンガポールは、朝の8時を過ぎたばかりだというのに、ホテルの回転扉を抜けた瞬間からシャツの背中へ湿気がまとわりついてきた。
赤道からわずか一度あまりしか離れていない島では、ロンドンの夏とは空気そのものの密度が違う。オーチャード・ロードの植栽は昨夜のスコールをまだ葉の上に残し、道路を走るトヨタ・クラウンのタクシーやメルセデスのボディには朝日が強く反射していた。街路は驚くほど清潔だったが、少し歩けば福建語、英語、マレー語、タミル語が同じ交差点から聞こえ、古いショップハウスの向こうにはガラス張りの高層ビルが立っている。国土は狭いのに、その狭さを補うように世界中の人間と金と物が集まってくる都市だった。嘉一はタクシーの後席から、南へ近づくにつれて増えていくコンテナトレーラーを眺めていた。
1997年にタイから始まった通貨危機は、わずか数か月で東南アジア全体を揺さぶった。インドネシアではルピアが暴落し、翌年にはスハルトの32年間にわたる体制そのものが崩れた。マレーシアのマハティール政権はIMF流とは異なる資本規制を選び、シンガポールも深刻な打撃を受けたものの、1999年になると港には再び膨大な貨物が流れ込み始めていた。
その復活ぶりを最も露骨に示しているのが海だった。タンジョン・パガーを抜け、港が見えるところまで来ると、沖には大型コンテナ船、原油タンカー、バルクキャリア、沿岸貨物船、タグボート、バンカー船が幾層にも重なるように浮かんでいた。停泊中の船だけを見ていると海上都市のようで、水平線へ目を向ければ、その外側をさらに別の船が東西へ移動している。シンガポール港には、この年だけで14万隻を超える船が寄港することになる。
「相変わらず、とんでもない場所だな」
助手席に座っていたArthur Evansが振り返った。
巨体を英国仕立ての薄い麻のジャケットへ押し込んでいる姿は、本人がどれだけ穏やかな表情をしていても、タクシーの車内を狭く見せた。
「何が?」
「船だよ。陸地より混んでる」
「世界で一番忙しい港だからな」
嘉一はそう答えてから、沖に停泊するVLCCの巨大な船腹へ目を向けた。
「でも、船が多いことより、ここに来れば船に必要なものがほとんど全部揃うことの方が重要なんだ。貨物の積み替え、燃料、修理、船員交代、金融、保険、仲介、法律。港だけ作ったんじゃなくて、海運という産業そのものを集めた」
アーサーは窓の外を眺めながら頷いた。
「お前の親父が好きそうな場所だ」
「実際、好きだよ」
Chikami Maritimeは、父の嘉将が1971年に設立した会社だった。巨大コンテナ船を世界の主要港へ定期運航するメガキャリアではない。創業当初はChikami Tradingが扱う鋼材や機械、鉱物資源を運ぶための船舶手配から始まり、やがて自社で中小型の一般貨物船や多目的船を保有するようになった。現在では船主として船を持つ仕事に加え、他社船を期間用船して荷主へ提供するチャータリング、船舶管理、重量物やプラント設備の輸送、港湾代理店や燃料供給会社との調整まで行っている。
船を持つだけでは海運業にはならない。船をどこへ送り、何を積み、帰りに何を積むかまで考えなければ、巨大な鉄の塊は一日ごとに金を燃やす。燃料費、船員費、保険、港費、修繕費を支払いながら空荷で航海すれば、それだけで利益は消えていく。
嘉一はその仕組みが好きだった。鉱山会社を買うのとは違う。船は止まらず、国境を越え、気象と政治と市況のすべてに晒される。世界経済を机の上の数字ではなく、数万トンの船体として見る仕事だった。
そのChikami Maritimeのシンガポール・オフィスから、ここ2か月で3度目となる報告がロンドンへ届いていた。マラッカ海峡で船が狙われている。まだ死者は出ていない。最初は船尾から侵入した数人が船員の私物と船内金庫の現金を奪って逃げただけだった。2度目は接近してきた高速艇を当直員が発見し、サーチライトを向けたところで退散した。3度目には別の関係船が追尾され、無線で助けを求めたところで相手が離れた。ひとつひとつなら、この海域では珍しい事件ではない。しかしChikami Maritimeの運航に関係する船が続けて選ばれている。嘉一はそれが気になった。
「で、今日の予定は?」
アーサーが訊いた。
「午前中はMaritime。午後は船を見る」
「夜は?」
嘉一は時計を見た。
「昔の友達と飯」
アーサーが初めて笑った。
「来たのか」
「昨日、バンコクから入ったらしい」
「休暇中なんだろ?」
「だから飯だけだよ」
「お前がそう言うと、嫌な予感しかしない」
嘉一は答えず、窓の外へ顔を向けた。

Keith EatonはBoat Quay沿いのレストランで、先にビールを飲んでいた。36歳になったばかりだった。髪は短く、日に焼けた顔には、長年海と砂漠と訓練場で過ごした人間特有の細かな皺が刻まれている。体格はアーサーほど巨大ではないが、185cmほどの身体に無駄な肉はほとんどなく、Tシャツの袖から出た前腕だけを見ても、普通の観光客ではないことは分かった。米海軍を退役してまだ数か月しか経っていない。SEALに入り、その後DEVGRUへ進み、最後にはLieutenant Commanderまで上がった男だった。
嘉一とアーサーを見つけると、キースは立ち上がった。
「Kaz」
「久しぶり」
握手をしてから、アーサーを見る。
「でかくなったな」
アーサーが眉を寄せた。
「36歳で成長するか」
「横に」
「お前、会って30秒で喧嘩売るのか」
キースは笑った。寡黙な男ではない。気心の知れた仲間とは普通に話すし、冗談も言う。ただし、自分が会話の中心になって延々と喋り続けるような性格ではなく、必要以上に自分を説明することもなかった。3人が最後に揃ったのはかなり前だった。
テーブルにはチリクラブ、ブラックペッパークラブ、海南鶏飯、サテー、それにビールが次々と運ばれてきた。キースは東南アジアを2週間ほど回っており、プーケットで潜り、バンコクで友人と会い、そのままシンガポールまで南下したらしい。
「これからどうする?」
嘉一が訊いた。
「決めてない」
「アメリカへ戻る?」
「そのうち」
アーサーが蟹の殻を割りながら訊く。
「仕事は?」
「しばらくいい」
「珍しいな」
「20年近く働いたんだ。少しくらい休ませろ」
嘉一は笑った。
「もっともだ」
そこでキースが、テーブルの隅に置かれた嘉一の資料へ目をやった。表紙にChikami Maritimeのロゴが入っている。
「船?」
「仕事だよ」
「何かあった?」
「海賊」
キースの表情がほんの少しだけ変わった。
「どこ?」
「マラッカ」
「面白そうだな」
アーサーがすぐに言った。
「休暇だろ」
「見に行くだけだ」
嘉一はキースを見た。
「明日、船に乗る」
「何時?」
アーサーが蟹を食べる手を止めた。
「お前、本当に休暇なのか?」
キースはグラスを持ち上げた。
「海があるなら、休暇だろ」
第二章 狭い海
翌朝、3人が乗り込んだのは、Chikami Maritimeが長期用船している1万6000重量トン級の多目的貨物船《Pacific Heron》だった。全長は150m弱で、最新の大型コンテナ船と比べれば小さいが、船上に立てば十分に巨大だった。船体中央から前方へ2基のデッキクレーンが並び、ハッチカバーの上にはコンテナと木箱、鋼製の大型機械部品が固定されている。船尾側には白い居住区と船橋がそびえ、その下では中速ディーゼル主機が低い振動を船体全体へ送り続けていた。
今回の積荷には日本製の工作機械、通信装置、化学プラント用のポンプ類が含まれている。奪ってその場で持ち帰れる荷物ではない。だからこそ嘉一は、単純な盗賊による偶然の襲撃とは考えていなかった。
船長はフィリピン人のManuel Santosで、50代半ば、商船一筋30年の男だった。出港前の船橋で嘉一たちを迎えると、海図台に広げたチャートの一点を指した。
「この辺りです」
マラッカ海峡の南部だった。
シンガポールを出て西へ向かえば、左舷側にはインドネシアの島々が続き、右舷側にはマレー半島が伸びる。その先はスマトラ島との間が長大な水路となり、アンダマン海、そしてインド洋へ通じている。
嘉一は海図を眺めた。ヨーロッパと東アジアを結ぶ船、ペルシャ湾から原油を運ぶタンカー、オーストラリアから鉱石を積んだバルカー、世界中の製品を詰め込んだコンテナ船が、この細い海へ集まってくる。地政学者がチョークポイントと呼ぶ理由は単純だった。世界地図では海は広いが、海運に使える道は、決して無限ではない。ホルムズ海峡を出た原油はインド洋を東へ進み、東アジアへ向かうなら多くがマラッカを通る。ヨーロッパとの貿易も、スエズ運河からインド洋を横断してここへ達する。迂回路はあるが、スンダ海峡やロンボク海峡を回れば距離と時間と燃料が増え、船の大きさによって使える航路も違ってくる。
「陸上交通なら、道路一本が閉じても別の道へ回れる」
嘉一が海図を見ながら言った。
「海も同じじゃないのか?」
アーサーが訊く。
「回れるよ。ただし、その迂回が数百海里単位になる。タンカーが何十隻、何百隻とそれをやれば、世界中の運賃と燃料価格へ跳ね返る。海峡っていうのは、地図では細い線にしか見えないけど、実際には世界経済の血管みたいなものなんだ」
キースが窓の外を見ながら言った。
「だから狙う奴もいる」
「そういうこと」

1999年のこの海峡では、国家同士の戦争よりもっと身近な脅威が増えていた。アジア通貨危機で特に深い傷を負ったインドネシアでは、多くの会社が倒産し、船員や港湾労働者、漁師が仕事を失った。さらにスハルト体制崩壊後の政治的混乱が重なり、中央政府の統制が弱い島嶼部では密輸や海上強盗が拡大した。
もちろん貧困だけで海賊が生まれるわけではない。海峡には以前から、非合法な燃料取引、密輸、盗品市場、偽造書類を扱う人間がいた。そこへ船を扱える失業者が大量に流れ込めば、犯罪は急速に専門化する。
彼らは帆船で大砲を撃つ昔の海賊ではない。漁船や小型高速艇で商船へ近づき、短時間で乗り込み、現金や貴重品を奪って消える。より組織化された集団なら船そのものを乗っ取り、船名や塗装、書類まで変えて貨物を売り払うこともある。
嘉一はそうした事情を説明しながら、船橋の窓越しに海を見ていた。コンテナ船が左から右へ横切り、その向こうをケミカルタンカーが進んでいる。小型漁船は大型船の間を縫うように動き、遠くではタグボートがバージを曳いていた。これほど交通量が多ければ、犯罪者にとっても都合がいい。船影が多すぎるのだ。一隻の不審船を見つけることそのものが難しい。
午後、キースが最も長くいたのは《Pacific Heron》の甲板ではなく、その船尾近くに固定された別の船だった。CGSが試験的に導入した11m級のRigid Inflatable Boat、いわゆるRHIBである。複合材製の硬い船底に、大径の空気式チューブを組み合わせた艇で、全長約11m、幅3mあまり。外見だけなら大型のゴムボートに見えるが、中身はまるで違う。強い浮力を持つチューブが船体を安定させ、硬いV型船底が高速航走時に波を切る。特殊作戦用の同系統艇は、40ノットを超える速度で荒れた海を走り、SEALの投入や回収、船舶への臨検などに使われていた。
CGSの艇は軍用仕様そのものではないが、設計思想はほぼ同じだった。2基のディーゼルエンジンとウォータージェット推進を持ち、プロペラを船底から露出させないため浅い場所でも扱いやすい。中央の操縦席には簡素な計器類と無線機が並び、前後には人員と装備を載せるスペースが確保されている。キースは艇の中を一周すると、コンソールの前でしばらく立っていた。

「どう?」
嘉一が訊く。
「悪くない」
「それだけ?」
「乗ってみないと分からない」
アーサーが横から言った。
「元SEALは面倒だな」
キースが振り向く。
「お前にMinimiを渡して、“まだ撃ってないけどどうだ”って聞くのと同じだ」
「それなら答えられる」
「何て?」
「いい銃だ」
嘉一が笑った。
「結局同じじゃないか」
武器を出したのは、公海へ近づいてからだった。甲板下の保管区画に、CGSが持ち込んだ輸送ケースが積まれている。
嘉一が選んだのはDiemaco C8だった。カナダでC7から派生した5.56mmカービンで、M16系と基本構造を共有しながら、短い銃身と伸縮式ストックによって全長を抑えている。1999年時点では後年のL119ほど英国特殊部隊の象徴にはなっていなかったが、軽く、狭い船内や車両で扱いやすく、嘉一はCGS用装備として数挺を確保していた。
サイドアームはBrowning Hi-Power。1930年代に原型が完成した古い拳銃でありながら、13発の9mm弾を収める複列弾倉と薄い握り、素直な操作感から長く英国軍で使われ、SASにも馴染みが深い。新しい拳銃はいくらでもあったが、嘉一の手にはこれが一番自然だった。
アーサーはケースからFN Minimiを持ち上げた。ベルギーFNが開発した5.56mm軽機関銃で、米軍ではM249として知られている。小銃と同じ5.56mm弾を使いながらベルト給弾による持続火力を持ち、分隊機関銃としては比較的軽い。それでも弾薬まで含めれば十分に重かったが、アーサーが抱えると、不思議なくらい小さく見えた。
キースはM4A1を選んだ。米特殊作戦部隊にとって、1990年代末にはすでに見慣れた存在だった。M16より短い銃身と伸縮式ストックを持つ5.56mmカービンで、キースのものにはKnight’s Armament製レールシステムが組まれている。DEVGRU時代から慣れた構成らしく、武器を受け取ってから確認を終えるまでの動作には、考えている様子がほとんどなかった。腰にはSIG Sauer P226。1980年代から米海軍特殊戦部隊との結びつきが強い9mm拳銃で、キースにとってはこちらの方がBrowningより馴染みがある。
アーサーがケースを開けると、M4A1やP226とは明らかに毛色の違う、巨大な黒い自動拳銃が収まっていた。キースがそれを見て、嘉一を振り返った。
「Oh……! これ、お前が用意したのか」
「好きだったろ」
キースはDesert Eagleを持ち上げ、少し笑った。
「覚えてたのか」
アーサーが横から覗き込む。
「休暇中の友達に.50口径を用意する奴がどこにいる」
嘉一は肩をすくめた。
「喜んでるからいいだろ」

そのさらに奥には、M72 LAWの細長い筒と、厳重に固定されたFIM-92 Stingerのコンテナがあった。嘉一の顔から笑いが消えた。
「待て。Stingerまであるのか」
アーサーもキースを見る。
キースは肩をすくめた。
「俺じゃない」
「じゃあ誰だ」
アーサーが言った。
「お前の会社だろ」
FIM-92 Stingerは、1980年代から米軍をはじめ西側各国で広く使われてきた携行式対空ミサイルだった。低空を飛ぶ航空機やヘリコプターに対処するための兵器で、アフガニスタン紛争でソ連軍ヘリに大きな脅威を与えたことで一般にも知られている。1999年ならRMPやBlock Iといった改良型がすでに存在し、湾岸戦争を経ても一線級の近距離防空兵器だった。
「海賊相手に対空ミサイルを持ってくる警備会社がどこにある」
嘉一が言うと、アーサーが答えた。
「たぶん、うちぐらいだろ」
キースが笑った。
「いい会社じゃないか」
嘉一はその時点では、本当に使うことになるとは思っていなかった。
第三章 夜の甲板
最初の船影を見つけたのは23時17分だった。マラッカ海峡の夜は完全な暗闇にはならない。大型船の航海灯が点々と続き、遠くではタンカーの甲板照明が白く光り、陸地のある方向には小さな集落や港湾施設の明かりが滲んでいる。それでも月が雲に隠れると、船と船の間には墨を流したような海が広がった。
《Pacific Heron》は14ノットほどで北西へ進んでいた。風は弱く、海面も比較的穏やかだった。キースは右舷側の甲板から沖を見ていた。
「Kaz」
無線から声が入った。
「どうした」
「右後方。小さいのが2隻」
嘉一は船橋のウイングへ出た。肉眼ではほとんど見えなかったが、レーダーには確かに小さな反応がある。漁船なら珍しくない。ただし、2隻とも針路が不自然だった。Santos船長がレーダーを確認する。
「近づいてます」
アーサーの声も入った。
「左にも一隻いる」
嘉一はしばらく画面を見た。距離が縮まっている。偶然ではなかった。
「警報を出す。船員は船内へ。甲板に出るな」
キースが短く答える。
「了解」
その声には、夕食時まで残っていた休暇中の男の柔らかさがなかった。戦闘が始まる前のキースを、嘉一は何度も見ていた。興奮しない。怒鳴らない。むしろ余分な動きが消えていく。人間が緊張すると普通は肩や手に力が入るが、キースは逆だった。必要な部分だけが残り、それ以外が静かになる。アーサーも同じ変化を知っている。
「久しぶりだな」
左舷側でMinimiを抱えたアーサーが言った。キースが答えた。
「何が?」
「この感じだ」
キースは少し笑った。
「俺は昨日まで休暇だった」
「まだ休暇だろ」
「なら残業代はいらないな」
「そもそも社員じゃない」
嘉一が無線に割り込む。
「お前ら、楽しそうだな」
「お前が一番楽しそうだぞ、Kaz」
「ああ、楽しくってしかたないね」
返したのはキースだった。その直後、右舷側の艇が一気に速度を上げた。エンジン音が夜の海を切り裂く。サーチライトを向けると、長さ8mほどの高速艇が白い飛沫を上げて近づいてきた。操縦席の後ろに数人が乗っており、別の一人が船首側で何か長いものを抱えている。
AK系の小銃だった。銃声が聞こえ、弾丸が船体の鋼板に当たり、乾いた金属音を残した。ここから先の数分間、《Pacific Heron》は貨物船ではなくなった。
アーサーが右舷へ移動し、Minimiの火力で接近する艇の動きを抑える。5.56mmの軽機関銃は大型船を傷つけないよう射線を選ばなければならなかったが、アーサーは巨体に似合わないほど慎重だった。撃ち続けるのではなく、相手が頭を上げようとする瞬間だけ強い圧力をかけ、甲板員が避難する時間を作る。
嘉一は船橋下の通路へ移った。右舷側から最初の侵入者が上がってきた。濡れた靴が鋼製甲板を踏む音がし、その直後にC8が短く響いた。嘉一は正面に留まらず、居住区への入口を守りながら位置を変え、船員区画へ敵を入れないことだけに集中した。キースは、すでにそこにはいなかった。
「キース、位置は?」
嘉一が訊くが、キースは返事をせず、代わりにアーサーが答えた。
「前だ」
「前?」
「もう前甲板にいる」
嘉一が船体中央へ目を向けると、コンテナとクレーンの陰を一人の人影が走っていた。
速い。
しかし、ただ速いだけではなかった。照明の当たる場所を避け、相手から見える時間を最小限にしながら、船の構造物を使って前へ出ている。相手が次にどこへ現れるかを知っているような動きだった。
右舷から2人目の襲撃者が甲板へ上がったところで、キースはもうその側面にいた。M4A1が短く火を噴く。キースは止まらない。その後ろから別の男が現れたが、キースが振り向いたときには相手は銃を構える途中だった。相手が何をするか確認してから動くのではなく、身体の向きや視線から次の動作を先に読んでいるように見えた。嘉一は思わず笑った。昔から変わっていない。
アーサーの強さには重さがある。撃ち合いになっても、押し込まれても、最後までその場に立っているという安心感があった。キースの強さは種類が違う。根本から違う。相手に「戦う時間」を与えない。キースは戦闘空間の「時間」を支配しているのだ。
嘉一が船橋へ戻ろうとしたとき、左舷側で大きな音がした。3隻目が接近している。こちらは他より大きい。船体の低い高速艇で、船首には古いソ連系の機関銃らしいものまで据えられていた。
「Kaz」アーサーが呼びかけた。
「見えてる」
「Minimiじゃ足りない」
嘉一も同意した。
「ケース」
アーサーが一瞬だけ笑った。
「どれだ?」
「M72だ。Stingerじゃない」
「分かってる」
M72 LAWは、1960年代から使われてきた66mmの軽量対装甲ロケットで、ベトナム戦争の映像にも頻繁に登場する古参兵器だった。1999年には決して最新ではないが、軽く、単発で、必要な瞬間だけ大きな打撃力を持ち込めるという性格は変わらない。アーサーがその筒を持つと、さらに小さく見えた。
「船体そのものを沈めるな」
「注文が多いな」
「俺の船だ」
「それ、さっきも聞いた」
数秒後、夜の甲板が白い閃光に照らされた。ロケットは高速艇の前部へ直撃し、水面から火と破片を高く跳ね上げた。艇は完全に吹き飛んだわけではなかったが、急激に速度を失い、船首を大きく振って《Pacific Heron》から離れていく。キースの声が無線に入る。
「派手だな」
アーサーが答える。
「休暇だからな」
「意味が分からん」
嘉一は笑う余裕がなくなっていた。船橋のレーダーに、別の反応が現れたからだ。あまりに動きが速く、海上を走る船でないことは明らかだった。Santos船長もすぐ気づいた。
「Aircraft」
遠くから回転翼の音が聞こえ始め、やがて黒い空の中に、点滅する灯火が見えた。軽ヘリ、民間用のBell 206 JetRangerに見える。それ自体は珍しい機体ではない。世界中で輸送、報道、警察、企業用途に使われている小型ヘリで、海峡周辺の富裕な企業や石油関連会社が運用していても不思議ではなかった。
問題は、開いたドアから男が身を乗り出していたことだった。銃口が光り、弾丸が船橋付近を叩く。アーサーが叫んだ。
「海賊がヘリを持ってるって聞いたことあるか?」
嘉一は窓の下へ身を沈めた。
「今日まではない」
キースの声が入る。
「だからStingerがあったのか?」
「違うと思う」
「あるなら使える」
嘉一は一瞬黙った。民間警備会社が商船の上から携行式地対空ミサイルを撃つ。冷静に考えれば、どこから説明していいのか分からない光景だった。だがヘリは再び旋回してくる。
「アーサー」
「分かった」
「……本当に分かってる?」
アーサーの低い笑い声が無線に入った。
「Stingerだろ」
FIM-92は人が肩で運べるほど小さいが、中身は本物の誘導ミサイルである。発射後の細かな操作を人間が続ける旧世代兵器とは違い、目標を追うための誘導系を内部に持ち、低空を飛ぶ航空機にとっては極めて危険な存在だった。
嘉一はアーサーが対空兵器を準備する間も、ヘリから目を離さなかった。機体は再び高度を下げる。キースが甲板の端から言った。
「来るぞ」
次の瞬間、アーサーの巨体の影からStingerが夜空へ飛び出した。貨物船の甲板から伸びた光が弧を描きながら海上へ離れ、ヘリは急激に向きを変えた。しかし数秒後、空中で強い閃光が生まれ、ローター音が乱れた。Bell 206は炎を引きながら高度を落としていく。海面へ落ちる直前、機体の一部が再び光った。その火が黒い海へ消えたあと、しばらく誰も喋らなかった。

最初に声を出したのはキースだった。
「いい会社だな」
嘉一は額を押さえた。
「まだ入ってないだろ」
「考え直してる」
アーサーが言った。
「入る方向に?」
「今のところは」
第4章 追う者
《Pacific Heron》への襲撃が終わったと判断されたのは、最初の銃声から20分も経たない頃だった。甲板にはまだ火薬の臭いが残り、右舷側では破損した手すりの向こうに黒い海が広がっていた。遠くには、先ほど撃墜されたBell 206が墜ちたあたりに小さな炎が浮かんでいたが、それも波に洗われるたびに弱くなり、やがて周囲を行き交う船舶の航海灯と区別がつかなくなっていった。
Santos船長は船橋で損傷状況を確認しながら、シンガポールとマレーシア側の関係機関へ無線を飛ばしていた。船員に重傷者はいない。弾痕はいくつも残ったものの、航行に影響する被害もなかった。嘉一はC8を下ろし、ようやく息をついた。
「終わったな」
アーサーがMinimiを抱えたまま甲板へ出てきた。1980年代にFNが実用化したこの5.56mm軽機関銃は、歩兵一人でも持ち運べる重量にベルト給弾による継続火力を押し込んだ兵器で、アーサーほどの体格の男が持つと、通常なら両手で抱えるべき銃が不自然なほど小さく見えた。
「たぶんな」
嘉一は答えたが、少し離れたところに立つキースは何も言わなかった。
「キース?」
呼ばれてもすぐには振り返らず、暗い海面の一点を目で追い続けている。
「一隻残ってる」
嘉一も右舷へ出た。《Pacific Heron》から数百m離れたところを、小型高速艇が北西へ逃げていた。襲撃時に他の艇へ指示を出していた比較的大きな艇で、他が離脱したあとも最後まで《Pacific Heron》の周囲に残っていた船だった。
「指揮してた奴か」
アーサーが双眼鏡を上げる。
「たぶんな。4人……いや、5人いる」
キースが言った。
「スマトラ側へ逃げる気だ」
その先には小さな島々が連なり、夜間操業の漁船も多い。一度そこへ紛れ込まれれば、巨大な商船から追跡することはできない。
アーサーが嘉一に言った。
「警察に任せるか?」
常識的には、それが正しい。彼らは海軍でも沿岸警備隊でもなく、まして海賊を追跡する権限を与えられた公的機関でもない。
嘉一は数秒考えた。その間、キースは何も言わなかった。ただ逃げる高速艇を見つめている。嘉一はその横顔を見て、昔とまったく変わっていないと思った。湾岸でもボスニアでも、キースは「追うか」とは聞かなかった。追える状況なら、すでに頭の中で追跡を始めている。
「RHIBを下ろす」
キースがわずかに笑った。
「そう言うと思った」
アーサーがため息をついた。
「お前、休暇じゃなかったのか」
「まだ休暇だよ」
「ずいぶん忙しい休暇だな」
CGSがシンガポールへ持ち込んだ11m級RHIBは、《Pacific Heron》のクレーンで夜の海へ降ろされた。Rigid Hull Inflatable Boatという名前の通り、船底は単なるゴムではなく、波を切るための硬いV字型船体を持ち、その外周に大型の空気式チューブを備えている。硬質船体の高速性能と、インフレータブル艇の浮力と安定性を組み合わせた構造で、沿岸警備や救難にも使われる一方、この11m級は米海軍特殊戦部隊がSEALの投入・回収や海上阻止任務に使う艇と同じ思想で作られていた。CGS艇は軍用艇そのものではなかったが、双発ディーゼルとウォータージェットを備え、40ノットを超える速度を出せる。舷側のチューブは波を被ったときの復原性を助け、プロペラを船底外へ露出させないウォータージェットは、小型艇が活動する浅い沿岸海域でも扱いやすかった。
キースは縄梯子を降り、RHIBへ移ると、そのまま操縦席へ入った。アーサーも続き、その後ろから嘉一が乗り込む。
「運転できるのか?」
嘉一が訊くと、キースが振り返った。
「誰に聞いてる?」
「元海軍なのは知ってる」
「じゃあ聞くな」
アーサーが笑った。
「Kaz、シートベルトだけは締めとけ」
「そんなにひどいのか?」
「すぐ分かる」
キースがスロットルを押し込んだ。次の瞬間、艇の船尾が沈み、船首が持ち上がった。ディーゼルの低い唸りが一段高くなり、ウォータージェットが大量の海水を後方へ叩き出す。《Pacific Heron》の巨大な船腹が見る見る遠ざかり、黒い海面の上に白い航跡が一直線に伸びた。最初の大型船の航跡を越えた瞬間、RHIBは大きく跳ねた。嘉一の身体がシートから浮き、着水した船底から強い衝撃が突き上げてくる。
「キース!」
アーサーが叫んだ。
「何だ!」
「もう少し優しく走れ!」
「追跡中だ!」
「俺たちはSEALじゃない!」
キースが初めて振り返った。
「昔は似たようなもんだったろ!」
嘉一は手すりにつかまりながら笑った。
「アーサー、船酔いか?」
「船酔いする前に腰が壊れる!」
キースはまったく速度を落とさなかった。

マラッカ海峡の夜は、暗いのに静かではなかった。右手には大型タンカーの赤と緑の航海灯が流れ、左手には漁船の作業灯が白く浮かんでいる。そのさらに向こうではコンテナ船が、まるで夜の街区がそのまま海を移動しているような光をまとって東へ進んでいた。
こうした巨大船が十数ノットで進む海域を、小さなRHIBが40ノット近い速度で縫う。遠くから見る船はゆっくりに見えるが、近づけば違う。数万トンの鋼鉄が秒速数mで進むという事実は、海面に近い小型艇から見ると圧倒的だった。船首が壁のように現れ、横を抜ければ巨大な船腹が頭上へそびえ、通過したあとの航跡は小さな波ではなく、一つの地形のように艇を持ち上げる。キースはその動きをほとんど迷わず読んでいた。前方のタンカーの船尾をどちらから抜けるか、漁船群の切れ目がどこにあるか、逃走艇が島影へ入る前にどの角度から詰めればいいかを、その都度考えているようには見えない。アーサーが嘉一の肩を叩き、前方を指す。
「いたぞ」
逃走艇は800mほど先にいた。キースが少し針路を変える。
「速いな」
嘉一が言う。
「でもこっちの方が速い」
「追いついたら?」
「止める」
「どうやって?」
キースが初めて少し考えた。
「それは追いついてから考える」
アーサーが低く笑った。
「お前らしいな」
逃走艇の側も、追跡されていることに気づいた。船尾から銃声が響き、海面に小さな水柱が上がった。キースは速度を落とさず、わずかに艇の進路を振る。アーサーがMinimiを構えた。
「撃てるか?」
キースの問いに、アーサーは波に跳ねる艇の上で照準を取りながら答える。
「お前が真っ直ぐ走ればな」
「それは無理だ」
「なら聞くな」
嘉一もC8を構えたが、この速度では精密な射撃は期待できない。自分たちの艇が上下し、相手も上下し、双方が数十ノットで移動する海上射撃は、陸上とはまるで別の問題だった。そのときキースが前方を見たまま言った。
「Kaz、代われ」
「何?」
「操船」
「お前が一番上手いだろ」
「だから今は別のことをする」
キースはスロットルを嘉一へ渡した。アーサーが怪訝な顔をする。
「何する気だ」
キースは後部に固定されていた長いハードケースを開いた。中に収められていたのは、Knight’s Armament SR-25だった。アーサーが眉を上げた。
「それまで持ってきたのか」
キースは嘉一を見る。
「Kazが用意した」
嘉一は操縦席から答える。
「お前がシンガポールにいると聞いて追加したんだよ」
「休暇の友達に狙撃銃を用意する奴がいるか?」
アーサーが呆れたように言う。嘉一は笑った。
「役に立ってるだろ」
SR-25は、Eugene Stonerがかつて設計したAR-10の思想を、Knight’s Armamentが1980年代末から再構成して生まれた7.62mm半自動ライフルだった。M16やM4と似た操作体系を持ちながら、より強力な7.62×51mm NATO弾を使用し、精密射撃能力と半自動式の連射性を両立する。1999年の時点では、後に米特殊作戦部隊で広く知られるMk 11 Mod 0へつながる系統として、まだ一般部隊より特殊作戦コミュニティの方で存在感を増しつつある銃だった。M4A1より長く、重いため、狭い船内で振り回すには向いていない。しかし距離が開けば、その7.62mm弾と精密射撃能力が意味を持つ。
キースはSR-25をケースから取り出した。前方では、逃走艇がさらに別の船へ近づいている。70mほどの古い沿岸貨物船だった。船体側面には赤錆が流れ、低いデッキにはドラム缶や木箱が雑然と積まれている。逃走艇はそこへ寄せようとしていた。
「母船か」
アーサーが言った。
「たぶん」
嘉一は速度を保った。キースは船尾側で片膝をつき、SR-25を肩へ入れた。
「あの揺れで撃つのか?」
キースはスコープの向こうを見たまま答えた。
「だから半自動を持ってきた」
海上での精密射撃は、陸上の狙撃とは条件が根本から違う。射手自身が動いており、標的も動いている。その二つの足場となる海面まで絶えず上下している。RHIBは波を越えるたびに船首を持ち上げ、落ちる。その周期は一定ではなく、大型船の航跡に入れば突然変わる。標的の高速艇も同じように跳ねており、双方の船速と進行方向まで重なれば、静止した射場で距離を測るのとはまるで別の世界になる。

嘉一は横目でキースを見ながら思った。自分なら撃たない。少なくとも、こんな条件では撃ちたくなかった。
キースは長く狙わなかった。ただし、すぐにも撃たなかった。スコープの中で相手を追いながら、自分たちの艇が波を越える動きを身体で拾っているように見えた。
RHIBが一度大きく持ち上がり、船首が落ち始めると、ほんの一瞬、艇の動きが緩んだ。SR-25が鳴った。5.56mmカービンとは明らかに違う、低く重い発射音が夜の海へ抜けた。一瞬遅れて、逃走艇の操縦席で男が崩れた。高速艇は突然針路を失い、接舷寸前だった貨物船から大きく離れた。後部に立っていた男たちが手すりへしがみつき、一人が甲板へ倒れる。アーサーは双眼鏡を下ろした。
「今のを当てたのか」
キースはスコープから目を離した。
「止まっただろ」
嘉一は思わず笑った。
「相変わらずだな」
キースはSR-25をケースへ戻しながら訊く。
「何が?」
アーサーが答えた。
「全部だよ」
操縦をキースへ戻すと、RHIBは再び加速した。逃走艇では別の男が操縦席へ入り、貨物船へ向かおうとしている。しかし最初の狙撃で時間を失い、CGS艇との距離は一気に縮まっていた。さらに母船側でも動きが始まる。沿岸貨物船の甲板へ武装した男たちが現れ、AK系の小銃を構えた。キースがその数を数える。
「6……いや、8くらい」
アーサーがMinimiを構える。
「多いな」
嘉一はC8の弾倉を確認した。
「帰る?」
キースが笑った。
「ここまで来て?」
「聞いただけだ」
逃走艇が貨物船へ寄せ、キースがM4A1を持ち上げた。米軍が1990年代に本格導入したM4A1は、M16系の基本構造を短い14.5インチ銃身と伸縮式ストックへまとめた5.56mmカービンで、狭い車両や建物、船舶での戦闘を頻繁に行う特殊作戦部隊にとって使いやすい大きさだった。キースの個体にはKnight’s Armament製のレールシステムが組まれており、DEVGRUにいた頃から身体の一部のように扱ってきた構成だった。
「寄せろ」
キースが言った。
アーサーが彼を見る。
「何を?」
「船を」
「まさか乗る気か」
「他にある?」
嘉一がキースを見る。
「死ぬなよ」
「休暇中だからな」
キースはそう言って笑った。RHIBが貨物船の低い船尾へ接近すると、アーサーがMinimiで甲板側へ圧力をかけた。継続して撃ち続けるのではなく、武装した男たちが姿を見せるたびに短く射撃し、頭を上げる時間を与えない。その数秒があればキースには十分だった。RHIBと貨物船の船体が最も近づいた瞬間、キースが立ち上がる。嘉一が次に見たときには、もうキースは艇の上にはいなかった。低い後部デッキへ移り、M4A1を構えたまま貨物船内へ入っている。アーサーが呆れたように言った。
「馬鹿だろ、あいつ」
「昔からだよ」
嘉一も続いた。船内へ入った瞬間、戦闘の性質が変わった。海上では広かった視界が、狭い鋼鉄製の通路と急な階段へ押し込められる。機関の振動が壁を通じて身体へ伝わり、油と錆と潮の臭いが混ざっていた。
キースは先頭を進んだ。速い。だが、慌てているようには見えない。階段の上へ出る前にはすでに銃口が上を向き、扉へ近づけば開く方向まで確認している。敵が現れたときには、相手が銃を持ち上げるより先にM4A1が向いていた。
嘉一はその後ろを進みながら、キースの強さは射撃そのものではないと改めて思った。『THE SEVEN』には射撃の上手い人間はいくらでもいた。キースが異常なのは、相手が何をするかが見えているように動くところだった。戦闘中の一つ一つの判断に、迷うための時間が存在しない。
右側の通路から男が飛び出してきたので、キースはM4A1を向けた。左側でも音が下かとともうと、キースはすでに位置を変えている。アーサーが後方を押さえ、嘉一が中央で全体を見る。3人で動くと、昔の感覚が驚くほど簡単に戻った。キースが笑った。
「懐かしいな」
アーサーが答える。
「休暇だろ?」
「そうだった」

船橋へ続く最後の階段の途中で、キースのM4A1が突然止まった。弾倉が空になったのだ。キースは躊躇せず銃を下げ、腰のSIG Sauer P226を抜いた。P226は9mm弾を使うフルサイズの自動拳銃で、1980年代以降、米海軍特殊戦部隊との結びつきが特に深かった。Browning Hi-Powerより新しく、ダブルアクション/シングルアクション機構とデコッキングレバーを持ち、キースにとっては長年使ってきた実用品だった。
階段を上がったところで2人の男が現れたが、P226が短く響いた。キースはそのまま前へ進む。しかし、船橋手前の狭い通路で最後の弾倉も空になった。アーサーが後ろから声をかける。
「もうないのか?」
キースが腰へ手を伸ばした。
「ある」
抜いたDesert Eagleを見て、アーサーが顔をしかめた。.50 Action Express仕様の巨大な自動拳銃は、軍用サイドアームとして合理的な銃ではない。ガス圧作動という拳銃としては珍しい機構を持ち、重量は2kg近く、大きなフレームと強烈な弾薬のため、P226のように一日中腰へ下げて仕事をするための道具ではなかった。嘉一が笑った。
「本当に使うのか」
キースは巨大な拳銃を持ち上げた。
「お前が用意したんだろ」
「冗談だったんだよ」
「知らなかった」
奥の扉が開き、体格の大きな男が銃を持って現れた。Desert Eagleが鳴った。狭い鋼鉄の船内では、その発射音は拳銃というより小型の砲に近かった。衝撃が壁から壁へ跳ね返り、アーサーが思わず顔をしかめる。

「うるせえ!」
キースは平然としていた。
「だから好きなんだ」
嘉一は笑いながらC8を構え直した。
「やっぱりお前、頭おかしいよ」
「今さら?」
船橋にいたのはHadi Pranotoだった。40代半ば、日に焼けたインドネシア人で、かつてはスマトラとマレー半島を往復する沿岸貨物船の船長だった。通貨危機で会社が潰れ、数か月給与を受け取れないまま職を失い、最初は燃料と煙草の密輸に加わった。その後、船の航路と港の仕組みを知っていることを利用して海上強盗へ移り、やがて港湾関係者から積荷情報を買い、狙う船を選ぶまでになった。
Hadiの背後には巨大な国際組織などなかった。経済危機と政治混乱の隙間に、海を知る失業者と密輸業者が集まり、それが少しずつ犯罪集団へ変わっていっただけだった。だが、背景があることと、彼らが人を殺そうとしたことは別の話だった。
Hadiが古いAK系小銃を持ち上げたのと同時にキースはDesert Eagleを向けていた。嘉一には、結果が見えていた。Hadiが先に構えていたにもかかわらず、キースの方が速かった。一発の銃声のあと、AKが床へ落ちた。キースは近づき、それを蹴って遠ざける。アーサーが壁にもたれた。
翌日の夕方、3人はシンガポール川沿いの店へ戻った。24時間前に《Pacific Heron》で銃撃戦を行い、M72を撃ち、Stingerでヘリを落とし、夜のマラッカ海峡を40ノットで追跡し、動くRHIBからSR-25で別の高速艇を止め、最後は敵船へ乗り移った人間たちとは思えないほど、テーブルの上は平和だった。

アーサーはまた蟹を食べており、キースはビールを飲んでいる。嘉一は少しの間、2人を見ていたが、しばらくして呼びかけた。
「キース」
「何だ」
「CGSに来ないか」
キースはグラスを置いた。
「お前の警備会社?」
「そう」
「アーサーもいるんだよな」
アーサーが答えた。
「社員001だ」
キースが笑った。
「出世したな」
「社員が俺しかいなかっただけだ」
嘉一は続けた。
「企業警備、要人警護、調査、海上警備。たぶん、これから仕事は増える」
キースはしばらく考えていた。
「昨日のRHIBは?」
「会社の」
「SR-25も?」
「会社の」
「Desert Eagleも?」
嘉一は笑った。
「あれはお前にやる」
キースも笑う。
「悪くないな」
アーサーが訊いた。
「給料は聞かないのか?」
「それも聞く」
「休暇は?」
嘉一が先に言った。
キースは嘉一を見る。
「取れる?」
「もちろん」
アーサーが黙った。嘉一も黙った。キースは2人の顔を交互に見た。
「信用できないな」
「昨日まで休暇だったじゃないか」
「Stinger撃ったけどな」
3人とも笑った。
キースはビールを一口飲んでから、嘉一へ手を差し出した。
「いつから?」
嘉一はその手を握った。
「今日から」
アーサーがグラスを持ち上げる。
「ようこそ、社員002」
キースもグラスを上げた。
「悪くない会社だ」
夕暮れのシンガポール川には、古いショップハウスと新しい高層ビルの灯りが一緒に映っていた。そのさらに南では、世界中から来た商船が港へ入り、別の船がマラッカ海峡へ向けて出ていく。
Chikami Maritimeは、その海を商売にしていた。そして今、その海を守る会社には、Arthur Evansに続く2人目の男が加わった。
Keith Eaton。
後にCGSでも最も危険な仕事を任されることになる男は、入社する前日に、会社のSR-25で海上を走る艇を止め、会社のDesert Eagleを気に入り、会社のStingerを見て「いい会社だ」と言っていた。嘉一は、その採用判断だけは間違っていないと思っていた。
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